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選挙だけでは民主主義は育たない、「烏坎村の苦境」を評す―中国(2)

2013年05月22日

■選挙だけでは民主主義は育たない、「烏坎村の苦境」を評す―中国(2)■
 

China - Longji Dragon-back Terraces 14
China - Longji Dragon-back Terraces 14 / mckaysavage


本稿は「選挙だけでは民主主義は育たない、「烏坎村の苦境」を評す―中国(1)」の続編。前置きが長くなったが、李昌金氏が烏坎村事件について具体的に指摘しているポイントを説明したい。


■なぜ今、烏坎事件的な騒ぎが起きるのか

烏坎事件的なもめ事、すなわち村役人が不当に安く村の共有地を企業に売り渡し、村民たちが正当な権利を求めて抗議するといった事件は中国ではごくごく一般的だ。だがそれを「横暴な村役人と騙されていた村民たち」という図式で理解するのは間違いだと李氏は指摘する。烏坎的なもめ事が生み出されるメカニズムは以下のとおりだという。

・改革開放後、農村にどうにかして企業を誘致しようという動きが広がる。

・企業誘致のリソースとなったのは土地。農村の土地などもともと安いもので、当時は農民たちすらたいして重視していなかった。そこで激安、あるいは無料で企業に提供することで誘致するという戦略が広まった。

・こうして企業を誘致した村役人は、上級自治体からは「見事な思想開放っぷりよ」と褒めたたえられた。また村民には「投資家が工場を建てれば、地元に税金を払い、地元の人間を雇う。土地提供の優遇政策は損ではない」と説明され、村民たちも納得していた。

・だが奇跡的な成長を遂げた中国では土地の値段が暴騰。10~20年前に企業が取得した土地の値段、あるいは年々払われる土地貸借料は安すぎるのではなかろうか、と不満を招く。

・土地を提供した当時、村民たちは納得していた。だが調べてみると、村の重大な決定をする場合には開くべきである村民大会が開催されていなかったなどの手続き上の瑕疵が見つかる。

・“騙された農民たち”の決起。

なお李氏は烏坎において村トップが収賄や横領などの汚職をしていたかについては分からず、中国全土に通じる一般的な状況だと説明している。李氏のこうしたシニカルな見方は一貫したもので、宜黄事件についても「政府は強制土地収用で通常価格の1~3倍程度の補償金を提示したが、村民は3~6倍程度の補償金でなければ納得しなかった」と主張している(南都網)。


■農村には選挙がある

烏坎村の選挙は「中国農村初の近代的選挙」などと評されたが、それは農村にとって無知の輩の妄言だ、と李氏は口汚く指摘している。

村の行政組織である村民委員会は3年に1度の選挙でメンバーが選ばれている。烏坎村の選挙も「中華人民共和国村民委員会組織法」に則ったごくごく普通のもので、とりたてて珍しいものではない。上級政府も公平な選挙が行われるよう最大限の努力を払っており、政府が選挙結果を操作するという事例はごくごく少数にとどまる。

むしろ現在の農村における選挙の問題点は村内部にある。選挙に対する熱意がない、宗族(血縁グループによる干渉)、贈収賄といった問題があげられる。

というのが李氏の主張だ。宗族による干渉というのはよくある話で、実は烏坎村自体も選挙前に立ち上げた選挙運営委員会は村内の血縁グループから代表者を選ぶ形で結成された。いくら公正な選挙制度を保障したとしても、一族の人数で得票数が決まるようだと、なかなか民主主義は機能しない。先日、本サイトの記事「汚職村長とその兄弟、銃を片手に村民たちと戦う=農村改革と村長が築く“小王国”」で、横暴村長が銃で村民を撃ちまくるという話をご紹介したが、これも村長を擁する劉一族と、野党(?)・陳一族の戦いであった。


■選挙だけでは民主主義は根付かない

さて、烏坎事件を絶賛する人を激しく批判する李氏だが、中国農村の現状には改革が必要だと指摘する。その問題意識は「選挙をやっただけじゃ民主主義は根付かない」と集約できるだろう。

30年前、農村選挙の旗振り役であった彭真・全人代常務委員長は、村々の自治から始まり、それがやがて鎮へ、県へと次第に上級自治体へと上っていくと夢見ていた。ところが現実には選挙を導入しただけでは自治も民主主義も発展しなかった。

李氏は具体的な改善策として、選挙だけではなく行政の監督などにも民主主義的システムを導入せよ、生活の津々浦々まで心優しい政府が面倒を見る万能型政府ではなく機能を限定した有限型政府に転換し自治の範囲を広げよ、NGOや農協を作ることで農民の組織化を進めよ……などなどと説いている。

説明し出すと、それぞれ長文になりそうなトピックなのだが、提言の印象を一言で言うならば、「こりゃ大変だ」であろうか。面倒だから民主主義イラネで話がすめばいいのだが、そうなると「行政も司法も信頼できないし、なんかあったら騒いで自分たちの要求を通すしかないわ」的な、中国農村のカオスは残ったままとなる。このカオスを解消し、それなりに民草が納得し行政を信頼するためのツールとして、民主主義は期待されているのだ。

思えば、烏坎事件とは村人たちが騒ぎを起こすことを通じて、慈悲深き政府の恩恵としての選挙を与えられている。もっとも民主主義とは遠いルートで、民主的選挙を獲得するという皮肉に満ち満ちた物語である。「土地の奪還」という目的から見て、烏坎村の人々の戦略が間違っていたとは思わない。むしろ「中国の民主主義の目覚め」という世界中の誰もが釣られてしまう大ネタを用意することで、歴史的な劇場型事件を作り上げ政府の譲歩を引き出したという点では称賛に値する。

だが、問題は中国で必要とされている民主主義とは、暴力なり劇場型事件に頼らない形で、問題を調停するためのツールだということ。そしてその実現には欠けているパーツが無数にあるということだろう。


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