• お問い合わせ
  • RSSを購読
  • TwitterでFollow

「中国の特色ある社会主義」の政治制度とは?(岡本)

2013年06月28日

■「中国の特色ある社会主義」の政治制度とは?■


■集合行為論から中国の政治改革を考える

温家宝前首相が昨秋の党大会で最後の会見をしたときに「政治改革」の重要性を強調しました。中国の政治改革はどこに向かうのでしょうか。中国が「中国の特色ある社会主義」を標榜している以上,西洋の政治制度(いわゆる私たちのいう民主主義)を導入することはありません。

今回は,集合行為論から中国の政治制度改革を考えてみたいと思います。


1.国家はなぜできるのか。

中国共産党による中国という国家を考える前に,まず国家ができる理由を考えます。国家が存在するのは国内の治安を守り外敵から国民を守るためです(テーラー1995)。人々は集団になることによって集団内部を安全に保ち,そして集団から外の敵から身を守ることによって,生活を守ってきました。

集団のもっとも大きなものが国家です。国家は国家の成員である国民に対し「治安」と「国防」という公共財を供給します。国民は国家が提供する「治安」と「国防」によって安全な日常生活や経済活動を行うことが可能になります。

公共財を供給するにはお金がかかります。それを徴収するために税金という制度があります。また治安や国防のために人を徴収する必要もあります。それが徴兵制度です。国民は国家の成員である以上,公共財のための費用を負担し,公共財の供給のために協力しなければなりません。

しかしここで問題が発生します。合理的な人間であれば,公共財の供給に協力をしなくても誰かがやってくれるのではないかと考えます。自分一人が税金を払わなくても,兵隊にいかなくても国家が提供する公共財の量に影響は与えないだろうと考えます。

これがいわゆるフリーライダー(ただ乗り)問題です。一人ではなく多くの国民が公共財の供給に「ただ乗り」しようとすると,公共財の供給は最適ではなくなり,過少に供給されることになります。この結果,国家の「治安」や「国防」に影響を与えるかもしれません。

このように人々が集団になって集合財(公共財)を供給するのは難しいと考えたのがオルソン(1983)です。少人数が集団になることは可能です。でも大規模な集団は難しくなります。いわんや国家というレベルになると常にフリーライダーが存在するために国家という集団凝縮性を維持するためには工夫が必要になります。

オルソン(1983)は,大規模な集団を集団たらしめるための要因を「選択的誘因」として説明します。この集団に入っているからこそ,入っていないよりも「選択的」にインセンティブ(誘因)が与えられるようになっているために,集団であることが可能になります。

例えば,負の選択的誘因として,その集団であるがために会費を支払うというものです。国家レベルで言えば租税で費用の負担を行うというものです。集団の成員であれば,この費用負担から逃れられないようになっているのが普通です。

反対に正の選択的誘因として,集団に参加しているためにその集団が供給する集合財を享受することが可能になります。組織が大きくなればなるほどこの集合財からの便益よりも集合財供給のための費用負担の方が大きいためにフリーライダーになりやすいということは先程も述べたとおりです。

集合財を供給するために集団に参加するモチベーションは,正の選択的誘因の他に,社会的誘因も存在します。いわゆる集団リーダーであったり国家リーダーは社会的地位を享受します。またリーダーシップによって人からの評価や承認,名誉を得ることができます。他にも集合財以外の非集合財を得ることが可能になる場合もあります。国家の治安(よりよい社会)を目指して国家建設に励んだあと,個人的にご褒美があるような場合です。昔の皇帝が金銀財宝や妾を多く抱え込むのは集合財ではなく非集合財を享受している事例です。

でも多くの一般の人にとっては集団に参加する場合,費用よりも便益が少ないために,合理的な人間は大規模集団を作らないということになります。


2.中国共産党による国家建設,国家運営

オルソン(1983)のいう集団行為理論から中国共産党の建国,そして国家運営を考えてみましょう。

日本をはじめとする列強の中国侵略,辛亥革命以降に中国を統治し始めた国民党支配に対して,中国を変えようという動きがでます。それが中国共産党です。とくに毛沢東は,遅れている中国の現状を憂え,社会の進歩を願い,私的な勉強会である新民学会を設立します。新たな社会建設に向けた熱い思いはマルクス主義と結合します(ショート2010)。

1921年中国共産党結成のために毛沢東はじめ13人が上海に集います(第1回共産党大会)。共産党は,列強や国民党官僚に搾取される農民や市民に「共産主義社会」という公共財を供給することを集団目的としました。毛沢東をはじめ初期共産党員は革命で命の危険に会うかもしれないという費用を払いながらもよりよい中国を供給するという便益を目指して共産党を組織化していくことになります。

共産党は最初は少ない人数でしたが,徐々に農村の支持を得るようになります。共産党員は革命という費用を支払いながらも進歩した中国での生活を便益として期待し,革命に力をいれます。農民は自らが党員にならず支持する姿勢をみせるだけで,革命が成功した暁には土地がもらえると考えました。圧倒的な低費用で大きな便益が期待できたためにわざわざ入党することなく党支持に回ることでフリーライダーになろうとしたわけです。

1949年の新中国成立以降,共産党は「強い中国」という公共財を供給するために国家運営を行います。共産主義社会建設のスローガンのもと,党員も農民も市民もみな平等であるはずですが,党の組織への忠誠を得るために党員には選択的誘因を与えます。それがいわゆる「幹部」たちへの優遇です。党幹部に優先的に,食糧切符が用意されたり,電話が引けたりしました。改革開放以降はテレビが用意されたり立場がより上になると公用車が用意されたりします。共産党という集団を維持するために,党員への選択的誘因が提供されたわけです。

改革開放以降,中国共産党はGDPという富を国民にもたらしました。改革開放以降,共産党の集団目的は大きく変容します。「共産主義革命」という公共財ではなく「経済発展は硬い道理」と言われるように経済発展を国民に提供するという目的に変わります。

経済成長という公共財は,党員のみならず一般の人々にも豊かな成長をもたらします。しかし共産党への支持拡大のためにはさらなる党員の増加を目指し,盤石な共産党一党独裁体制を構築しなければなりません。江沢民は「三つの代表」を提唱し,2001年から新社会層(私営企業家、外資企業の管理職、弁護士・会計士などの専門職)への共産党への取り込みを開始しました(鈴木2012)。外見上は,新社会層への政治参加への機会を提供したわけですが,党にとっては党支配の強化につながります。また新社会層は,実権をもっている党幹部などのエリートや他の企業家とのパイプを築けるというメリットもあります(マクレガー2011)。共産党が提供する「コネ社会」という集合財は,党員だけが得られる選択的誘因になったわけです。これにより共産党は8000万人を超える世界最大の党になっています。

しかし,共産党支配による国家運営はこの選択的誘因によって党員官僚と一般社会との乖離が進みます。これが「官二代」という言葉に表わされるように,党員官僚は豊かになり,一般民衆は貧しいままです。

オルソン(1991)は,国家の興亡は集団組織間の利益分配によって左右されると主張します。特殊利益集団は問題を先送りするようになり,そして集団成員の同質化を通じて,組織を安定化させるため,排他的になってくると指摘します。

中国共産党には,それに対抗しうる他の政治集団組織がありません。まさに共産党という集団組織の興亡が国家の興亡につながってきます。


3.民主主義は素晴らしいのか。

現在,中国では経済発展で得た富を分配する権限があるのは中国共産党です。一方,民主主義国家は,複数政党により複数の集団が利益分配に参加します。選挙という投票によって国民全体が利益分配に参加できるシステムです。したがって民主主義の方がよいという議論になります。

しかし,本当に民主主義は素晴らしいシステムなのでしょうか?とくに私たちの現在の民主主義はヨーロッパから導入されたものです。王政により民衆の権利が抑圧され,その抑圧に対抗した民衆が立ち上がって,王のみが持っていた利益分配権を民衆自らが取り戻しました。この流れはアジアにおいても顕著で,一党独裁を経験した韓国や台湾のおいて,そしてインドネシアでも多党制へ移行していきました。

民主主義制度によって,税負担者が公共財の供給の決定に関わることが可能になります。しかし,税負担者の費用と受け取る公共財の便益が一致するのは,納税者全員が交渉して全員が一致する場合のみです。全員一致が公共財供給のパレート最適な状態になります。

現実には納税者全員が交渉ししかも全員一致することは不可能です。そのため二つの制度が採用されています。

(1)一つ目は議会制(代議制)民主主義(議員が有権者を代表する)です。議員が政策を提供し,有権者がもっとも選好の近い人を選ぶことによって,自らの選好を議会で反映させるというシステムです。

(2)もう一つは多数決です。全員一致で物事が決めることは大変時間がかかるため,議会における多数決あるいは与党による議会運営というのが便宜上採用されています。

議会制民主主義と多数決について問題をみていきましょう。

有権者が議員を選択する(投票する)のにも問題があります。一つは,議員側(実際には政党側)が政策を提供するにしても,議員は選挙で当選することが目的ですし,政党は多数派になることが目的です。そのため,有権者へのウケがいい政策を提言しがちです。二大政党制の場合,リベラルから左派までの幅広い支持を集めようとすると,どちらの政党も似たような政策(つまり中道的なもの)になってしまいます。いわゆる中位投票者の定理で,これによりリベラルや左派の人たちの選好が反映されないという結果になります。

また議員候補者は立候補になります。「議員をさせたい」というよりも「議員になりたい」という人を選択するシステムになっています。これは権力志向や野心家の人たちを推薦することになります(長山2013)。

中国共産党は選挙で党員が選ばれているわけではありませんが,党員になりたいという人が入党するので似たようなシステムになってしまいます。

投票自体にも問題があります。民主主義の理想では,投票者が議員や政党の政策をじっくり吟味し,自分が納得する政策を提供している議員や政党に投票することが求められています。しかし,実際の投票者は普通の人間であり,利己的で合理的な側面を持ちます。投票者は考えます。自分が投票した議員や政党が当選し多数派になるのかどうか。もしならなければ多数決で決まる以上,自分の選好を議会で反映することが不可能です。投票者は自分の選好が議会で反映する確率が小さければ小さいほど投票にいく便益がなくなってしまいます。この場合,わざわざ費用をかけて議員や政党の政策を調査するということをやめてしまいます。これが合理的無知です。有権者は,合理的な判断として無知であろうとします。

その他にも投票には問題があります。コンドルセの投票のパラドックスという,人々の選好が議会で反映されないという問題です。

多数決というシステムにも問題があります。多数決というシステムは,社会が一つの政策を選択する(社会選択)上で,その決定が社会の満足するものになるかどうか不安定になります。そもそも多数決は政治的な決定を少数派に押し付ける,いわゆる政治的決定の外部性という問題をはらんでいます。外部性が発生する時点で,パレート最適は不可能になります。そもそもアローは民主主義が不可能であることを示しています。

北京に駐在している人も民主主義制度と中国の政治制度を見て,以下のようにいいます(<日本人が見た中国>民主主義は絶対善なのか?)。

「日本の政治を見ていると、民主主義という制度は本当に難しい制度だと思う。なぜなら、参政権を持った国民全員に、「自分のポケットにお金が入るか入らない?」ではなく、国の将来を見据えた大局的な判断が求められるからである。 」

これはさきほど述べたように自分の選好が議会で反映する確率が低ければ低いほど,将来のこと考えることは無駄になります。

またこの駐在員はいいます。

「かく言う私も日本で教育を受けてきたので、初めて“悪の独裁国家”中国に来たときには「中国の国民は参政権も与えられず、独裁者に抑圧された暗い毎日を送っている」と思い込んでいた。しかし、中国に住んでわかったのは、「人は参政権がなくても結構幸せに暮らせる」ということだ。」

これは参政権があろうがなかろうが,一人の決定(独裁)も多数決の決定(民主主義)は同じ事で,その政策が合わない人にとってはただの押し付けにすぎないことになります。


4.中国の政治改革ー「中国の特色ある社会主義」が目指す政治制度

中国の一党独裁であれ,日本の民主主義であれ,基本的な考え方は,国家の公共財(集合財)を供給するために,どのような集団を構成するかということになります。一つの集団で集合財の供給を決定する場合,国民が集合財の供給の仕方に関わりたい場合は,その集団に入らなければなりません。中国では中国共産党が唯一の集合財供給の集団です。政治に参加して集合財供給に関わりたい,現在の場合経済発展とその成果の配分に関わりたいと考える場合は,共産党に入党するしかありません。

日本で,集合財の供給に関与したい場合は,投票に参加して,いくつかの集団の中から一つを支持するということになります。一党独裁と違うのは,国民全員が投票を通じて集合財供給に関与することが可能という点です。しかし,自分が支持する集団が議会で少数の場合は,何も得るものがありません。あるいは自分の一票で集合財供給に影響を与えるとも思えません。そうすると費用かけてどの集団が自分の選好と合うのか,それを調べることすら面倒になってしまいます。政治に興味を失い,投票に行かないという現在の日本のような状況になります。

政治制度としていいのは二つ,公共財供給に集団成員が参加できることと不利益を被る人を守るという点です。個人が集団になって集団が集合財を供給するというのが国家である以上,個人が集団に参加し集合財の供給に関わる過程を保証する必要があります(もちろん参加に関わらないという選択も可能にする必要があります。いわゆるフリーライダーです)。もう一つは集団が集合財の供給を決定した時に,それによって不利益(外部不経済)を被る人たちを減らす,国家の決定による不都合を減らすということです。

実際に,中国の政治改革をみてみると,以上の二つを保証するように考えられているようです。つまりポイントは,個人の政治参加を保証し,国家の権限を制限する方向です。

中国の政治改革は,①権利保証,②権力制限,が重点テーマです(「貧粗な政治体制改革の成果を列挙(今日の『人民日報』-20120514)」『佐々木智弘の「中国新政治を読む」2』)。

権利保証では

(1)基層では群衆自治を認める。
(2)全人代代表選挙では,農村と都市の代表を同票同権にする(現在は8:1の格差)。
(3)立法過程において公聴会を開催する。

のが改革の方向です。

権力制限では

(1)情報公開を行う(官僚の「三公消費」を公開する)。
(2)政府の職能転換を行う(行政部門における許認可権限を縮小する)。
(3)公務員管理(競争選抜による)。

という改革によって,国家による外部不経済をなくそうとしています。

また一党独裁とはいえ,毛沢東のように一人の決定がすべてを動かすことはありません。引退した長老(江沢民や胡錦濤)の影響を受けるとはいえ,重要な国家的決定は,党中央政治局常務委員の7人の合議と全員一致で行うことになっています。中央政治局常務委員がいろいろな背景をもつ人が選ばれていることを考えると,そこそこのバランスのとれた政策決定は可能かもしれません。民主主義のところで紹介した「中位投票者の定理」が政治局常務委員会での決定にも働く可能性があります。

投票権があるからといって,利益の配分に影響を与える確率がほぼゼロだとすると,投票権があるのもないのもあまり関係ない可能性もあります。つまり民主主義を中国に導入しないと問題だ,という単純な結果にはなりません。

そう考えると,中国には独自の政治体制あるいは独自の民主主義(中国でいう「中国の特色ある社会主義の政治制度」)が可能かもしれません。

私たちが認識している民主主義制度は簡単ではないのです。西尾さんはいいます。

「民主主義は完成品があるわけではない。進んだとか遅れたとかはない。「民主主義とは、人間のエゴイズムを調和させるために、ほかに仕方がないから、ある妥協の方法として生まれた消極的、相対的な政治形態でしかないのである。放置しておけば人間の欲望には際限がなく、エゴイズムの激突は、必ず無政府状態か専制独裁か、そのいずれにかに結果するしかないが、誰しも他人を独裁者にさせたくないという自分のエゴイズムをもっている。民主主義は、そういう相互のエゴイズムの調節手段としての、最悪よりも次善を選ぶ妥協の産物として成立したにすぎない。」(西尾2007,p.39)

参政権があっても,政治的決定に影響を与えないということであれば,参政権をもらっても私たちは得することはありません。むしろ日曜日の天気のいい日に家族と出かけるということを犠牲にして投票所に足を運ばなければなりません。

参政権がなくても,入党という形で集合財供給に関われるのであれば,その方が実質的という見方もできるでしょう。

重要なのは,一党独裁や多数決で決められるというシステムが横暴にならないように監視し,その決定によって不利益を被る国民の自由を守ることです。共産党体制を維持しつつも,共産党による国家の膨張を防ぎ,国民の自由を認めるという微妙なバランスが「中国の特色ある社会主義」の政治制度なのかもしれません。


<参考文献リスト>
鈴木隆(2012)『中国共産党の支配と権力: 党と新興の社会経済エリート』慶應義塾大学出版会 (2013年度発展途上国奨励賞受賞作品)
長山靖生(2013)『バカに民主主義は無理なのか? (光文社新書)』光文社新書
西尾幹二(2007)『個人主義とは何か (PHP新書)』PHP研究所
フィリップ・ショート(山形浩生訳)(2010)『毛沢東 ある人生(上)』白水社
マンサー・オルソン(依田博・森脇俊雅訳)(1983)『集合行為論―公共財と集団理論 (MINERVA人文・社会科学叢書)』ミネルヴァ書房
マンサー・オルソン(加藤寛)(1991)『国家興亡論―「集合行為論」からみた盛衰の科学』PHP研究所
J.M.ブキャナン、G.タロック、加藤寛(1998)『行きづまる民主主義 (公共選択の主張)』勁草書房
マイケル・テーラー(松原望)(1995)『協力の可能性―協力,国家,アナーキー』木鐸社
リチャード・マクレガー(小谷まさ代)(2011)『中国共産党 支配者たちの秘密の世界』草思社

「貧粗な政治体制改革の成果を列挙(今日の『人民日報』-20120514)」『佐々木智弘の「中国新政治を読む」2』
http://blog.livedoor.jp/sasashanghai-tokyo/archives/7031469.html,2013年6月10日アクセス
「<日本人が見た中国>民主主義は絶対善なのか?」『レコードチャイナ』2013年6月9日配信
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=73062&type=,2013年6月10日アクセス

*本記事はブログ「岡本信広の教育研究ブログ」の2013年6月27日付記事を、許可を得て転載したものです。


トップページへ

コメント欄を開く

ページのトップへ