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中国による「チベット史書き換え」、清政府駐蔵大臣衙門旧跡の狙いとは何か?(tonbani)

2013年11月23日

■ウーセル・ブログ:歴史を書き換える「清政府駐蔵大臣衙門旧跡」■


チベットの歴史“書き換え”を進める中国政府。ラサの歴史的建築物が再び歴史修正主義の道具として再建された。ジョカン寺北にあるトムシカン。清朝時代には「駐蔵大臣」の住居として使用されていたこともある、300年の歴史を持つ建物である。

「駐蔵大臣」は清朝の大使のような役割を担っていただけ。チベットが清朝に属していたという証拠にはなり得ないのだが、清朝によるチベット統治の史料としての役割が強調されている。この問題についてチベット人作家ツェリン・ウーセル氏が報告されている。

■歴史を書き換える「清政府駐蔵大臣衙門旧跡」
看不見的西蔵、2013年7月24日
訳:雲南太郎

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写真は「清政府駐蔵大臣衙門旧跡」に改装中のトムシカン。写真に写っている赤い横断幕のスローガンから、トムシカンを「修復」しているのは「チベット宏発建築公司」だと分かる。2013年5月に現地のチベット人が撮影した。

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2013年7月17日撮影。落成後の「清政府駐蔵大臣衙門旧跡」。

■トシムカンの改築
中国西蔵網は2013年5月29日、「清政府駐蔵大臣衙門(がもん)旧跡の修繕工事が鳴り物入りで進んでいる。これは古建築の本来の風格を保護するとともに、群衆の日常生活の中に隠れている極めて危険な建物を昔の姿に似せて修理する工事だ。完成後は清政府駐蔵大臣衙門復元陳列館にする」と伝えた。 

いわゆる「清政府駐蔵大臣衙門旧跡」が指しているのは、17世紀末から18世紀初頭、ダライ・ラマ6世の時代にバルコルの北側の通りに建てられたポタン(宮殿)建築、トムシカンだ。当初は「プンツォク・ラプゲリン」と呼ばれていた。

ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャンツォのほか、ラサを支配したホシュート(モンゴル系遊牧民)の首領ラサン・ハーン、カロン(大臣)に殺されたカロン・ティパ(主席大臣)のカンチェンネー、6、7人のアンバン(高位の人物を指す満洲語で、特にモンゴルや青海省、チベット、新疆などに駐在した清朝皇帝の代表を指す。駐屯大臣ともいう。中国語の史料では「駐蔵大臣」と表記する)がここに住んでいた。

トムシカンはアンバンが住み始めた時、災いを招き入れたシキョン(摂政)のポラネーによって改名された。市街の見える建物という意味で、つまり通りに面した建物だ。ここは実は血なまぐさい場所だった。それまでにカンチェンネーの2人の夫人がむごたらしく死んだだけではない。

1750年には、ポラネーのシキョン職を引き継いだ彼の息子ギュルメー・ナムギャルが2人のアンバンにおびき出され、殺害された。続いて100人以上の満洲人と漢人がチベット人に殺される流血事件が起きた。私は「消えるトムシカンの前世」という記事の中で、この事件についてチベット史と中国史が全く異なる記述と評価をしていることを紹介した。


 ■オリジナルはほとんど残っていなかった

今回の大規模な「修繕」が始まるまで、トムシカンは「ラサ古建築保護院」の標識をつけた雑居住宅だった。だが実際には、トムシカンは何度も「旧房改造」(古い建築物の改築)を経験しており、300年前の元々の風格はとうに損なわれている。文革前と文革中の破壊のほか、当局が何度も実施した「旧房改造」による破壊はおおよそ次のようなものだ。

目撃者の廖東凡(雑誌「中国西蔵」の元編集長)の記録によると、1994年秋、「ラサの旧房改造で、トムシカンの古い建物はほとんど取り壊された」という。 

ラサ旧市街の保護に力を注いだNGO「チベット・ヘリテージ・ファンド」(THF)の記録によると、1997年にチベット自治区副主席の承認とラサ市企画弁公室の主管の下、トムシカンは「理由の分からないまま取り壊され、1998年に新しく建て直された。この建物は今、主に住宅として使われている」という。

「建物の主要部分はやはり1997年に壊され、バルコル沿いの壁側だけが残った。元々の壁の後ろ側では1998年、建物の一部分と庭だった土地が4階建てアパートに取って代わられた」。THFを創設したドイツ人建築学者アンドレ・アレクサンダーと仲間たちの努力により、一部の部屋と窓、門が修復されたが、大型古建築のトムシカンは取り返しのつかない破壊に遭った。新しく建てられたアパートは鉄筋コンクリート造で、表面にチベット式の装飾を付け足していた。

トムシカン内には東院と中院、西院がある。100戸近い住民は基本的に地元のラサ人で、数十年前から住んでいる家族もいた。1997年の取り壊しは一部の家庭を立ち退かせたが、多くの家庭はまだ退去させられなかった。この時、三つある門のうち古い門がふさがれ、商店に改造されたものの、門の痕跡はまだ見て取れた。1998年になると、ちょうど昔の郵便局の位置に新しく門が一つ作られた。

2010年の後半、トムシカンは大々的に、多額の費用をかけて「修復と補強」が進められ、わずかに残っていた300年以上前の外壁は取り壊された。しかし、依然として元々の住民を退去させなかった。ここまでの数年で漢人と回族の商人に家を貸す人、さらには譲り渡す人まで現れた。譲渡価格は高騰し、ある回族商人は100万元で1階の商店を買いたがっていた。通り沿いの店舗には、じゅうたん屋や日用品店、工芸品店、タンカの制作と販売を手がけるアトリエがあった。後に中国人観光客が開いたアトリエも入り、「蔵漂」(中国人のチベット旅行者)のたまり場と呼ばれた。

2012年末、多額の費用をかけた「整備」がラサ旧市街でまた始まった。この時、トムシカンの100戸近い住民の全てがラサ西郊と東郊の「安置房」(立ち退きに遭った住民に用意されるマンション)や低所得層向けのアパートへ引っ越すよう求められた。居民委員会を含む各部門の警告も受けたため、わずかな補償費(店がない場合は1戸につき2万5000元、店がある場合は1平方メートルあたり5000元)を受け取って速やかに引っ越すしかなかった。漢人と回族の商店数軒は引っ越そうとせず、高い購入費用を払ったんだと訴えたが、彼らのような「釘子戸」(釘のように動かない住民)になろうというチベット人はいなかった。彼らもこの後、当局の願い通り引っ越すようだった。


■チベット史を書き換える一大プロジェクト 

2013年5月14日の「西蔵日報」はトムシカンの工事現場の写真を掲載し、「ラサ市城関区バルコル事務所バルコル社区内の作業員が駐蔵大臣衙門旧跡を修復している」と説明した。今回は明らかに、「トムシカン」という300年近い歴史を持つチベット名までも消えてなくなる。取って代わるのは「清政府駐蔵大臣衙門旧跡」だ。

既に空っぽにされたトムシカン。この意味深長な血なまぐさい旧跡が「清政府駐蔵大臣衙門復元陳列館」になる。ポタラ宮の足下に改めてつくられた「ショル城」という名の「愛国主義教育基地」と同じように、これは事実上、チベット史を書き換える一大プロジェクトだ。しかも、さらに尾ひれを付けて誇張し、でっち上げる。「駐蔵大臣衙門の復元と陳列は、駐蔵大臣制度の起源と歴史的発展のほか、歴代駐蔵大臣が祖国統一の維持と辺境防衛の強化、チベット社会発展の促進に果たした積極的な役割を全面的に展示、紹介できる」と官製メディアが報道していたように。

18世紀から辛亥革命に至るアンバンの歴史は、王力雄が著書「鳥葬」で書いた通りだ。

「185年間にわたり、相次いでチベット入りした135人の駐蔵大臣は(中略)チベットで実質的な権力を掌握できなかった」(ウーセル注・この陳列館の説明によると、185年間でおよそ100代以上の計138人)

「北京側は一貫して『駐蔵大臣はチベットに対する中国の主権の証明であり、中央政府を代表してチベット地方への主権を管理していた役人だ』と公然と言いふらしてきた」。だが、チベット史とチベット人の解釈では、歴代アンバンは「清朝皇帝(と中国)の大使で、情報伝達の責任を負っていたにすぎない。せいぜいチベットの政務について顧問の役割を務めていただけで、実質的な権力は元々なかった」。「チベットの官吏は表面上、駐蔵大臣には礼儀正しく従順だった。いわゆる『誠実なふり』であり、実際の行動は逆に『陰での抵抗と違反』だ。中国人の意思ではなく、完全に自分の意思に従ってチベットを統治していた」

つまり、清代の駐蔵大臣制度は北京がチベットに伸ばした「インターフェース」だ。事実上「骨抜き」にされ、チベットは「全く言うことを聞かず、ひどければインターフェースを遮断した」。

■かつて否定された封建王朝を引っ張り出してきた狙い

だが、改めてラサ旧市街の「整備」が特色を持って進められ、念入りに処理されるのに伴い、「古代の遺産を現在の事業に生か」した政治的な物語が華やかに登場してきた。そうである以上、強権を振るって物語を語る人たちには、1951年のチベット「解放」後に就任した中国共産党の歴代駐蔵大臣(チベット自治区党委書記)の業績や輝かしい歴史をぜひ付け加えるよう提案したい。

どうして党の歴代駐蔵大臣をなおざりにできるだろう?彼らは封建王朝の駐蔵大臣(かつて党に唾棄され、実は今までも党に蔑視されていた腐りきった存在)よりもずっと国を愛し、ずっと「祖国統一の維持と辺境防衛の強化、チベット社会発展の促進」に努めてきた。あるいは封建王朝の歴代駐蔵大臣を党員として事後承認すればいい。そうしてこそ、一貫して愛国が伝承されていると証明できる。そうでなければ、歴史のごみの山から清朝の駐蔵大臣を引っ張り出すのは、共産党によるチベットの占領と統治の合理性に裏書きするためということになる。それこそが目的なのだが、少しばかり恥ずかしいだろう!

そして、もし本当に「清政府駐蔵大臣」を懐かしむなら、「清政府駐蔵大臣衙門」で最も長い歴史を持つ遺跡「ド・センゲ」、つまり今日には「治安維持」の軍隊で埋まっているチベット軍区第二招待所に「清政府駐蔵大臣衙門復元陳列館」を設けるべきだ。衙門としての歴史が短く、血なまぐさいトムシカンを陳列館にするべきではない。これは明らかに誠意に欠けているし、明らかに捏造しているし、明らかに真の狙いは別のところにある。

■紅色旅行が作り上げる植民地化

そして、もし本当に「清政府駐蔵大臣」を懐かしむなら、果たして「清政府」が誰に属していたのかをはっきりさせるべきだ。清朝史を研究するハーバード大のマーク・エリオットは次のように書いている。「私たちは疑いもせずに直接、清朝を中国と同じものと扱っていいのだろうか?まさか私たちは清朝を『満洲』帝国とみなすべきではなく、中国をその単なる一部分とみなすべきではないと言うのか?」「大清帝国と中華民国は異なる政治目標を持った異なる政治的実体だ(中華人民共和国は更に言うまでもない)。たとえ人と地理という点で清朝と近代中国がはっきり重なっていても、両者はシームレスではなく、実際にはふぞろいで衝突する部分が多かった」。

ほかにも説明しておくべきことがある。「清政府駐蔵大臣衙門復元陳列館」に変えられたトムシカンは1997年の壊滅的な「旧市街改造」の過程で、アンドレ・アレクサンダーと彼のNGOが虎の口から食べ物を奪うように、狂気じみたブルドーザーの下から一部分を全力で救った。そうでなければ、トムシカンはとっくに「スルカン商場」に建て替えられたスルカン(ワンチェン・ゲレック)邸のようになってしまい、今ごろまた陳列館に変えようとしても相当難しかっただろう。

当局はアンドレたちの仕事に感謝するべきなのに、でたらめにも2002年に彼らをラサから永遠に追い出してしまった。昨年初めに若くして亡くなったアンドレがもし健在で、かつて力を尽くして守ったトムシカンが政治の道具に成り果てたのを見たら、きっと涙を流して嘆き悲しんだだろう。

チベットの歴史を書き換える勝手放題のプロジェクトが続いている。「整備」後のラサ旧市街には、同様に歴史を書き換える「愛国主義教育基地」がいくつ現れるだろう?中国官製メディアによると、現在「紅色旅游」(革命関連の名所旧跡を訪ねる旅行)が中国で流行しており、「各地方は経済発展のために『紅色旅游』の旗を掲げ、指導者の旧居は各地方政府が力を入れる重点的な観光スポットになった」という。

ラサや他のチベット・エリアには共産党指導者の旧居はないが、「紅色旅游」は同様に力を入れて進められている。駐蔵大臣や1950年代に病死したチベット人学者ゲンドゥン・チュンペー、ひいては7世紀の唐の文成公主までもが次々と「愛国志士」につくり替えられている。観光収入を生み出せる上にイデオロギー面のメリットも得られるが、その実体はますます深く入り込む植民地化だ。

2013年6月11日~7月23日  (RFA特約評論)

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*本記事はブログ「チベットNOW@ルンタ」の2013年10月20日付記事を許可を得て転載したものです。


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