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同化か、自治か――台湾に憲政を求めた林献堂の方針転換(黒羽)

2014年01月26日

■梁啓超、林献堂、板垣退助■

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■梁啓超と林献堂

東アジアの近代を考える上で梁啓超の存在感は大きい。日本統治下における台湾民族運動の立役者として知られる林献堂もまた政治的方向性を模索する中で梁啓超からの影響を受けていた。

1907年に27歳だった林献堂は初めて東京へ行った。当時、戊戌の政変(1898年)に敗れて日本へ亡命していた梁啓超は横浜で「新民叢報」社を設立して、清朝の立憲改革を求める言論活動を精力的に展開していた。かねてから梁啓超の盛名を聞いていた林献堂は是非とも面会したいと思い、横浜の彼の寓居を訪問したが、あいにくなことに不在。後ろ髪を引かれる思いで立ち去ったが、台湾へ帰る途中に寄った奈良で、旅行中だった梁啓超と偶然に出会う。

梁啓超は広東訛り、林献堂は閩南語を話す。二人は言葉が通じないため筆談で語り合った。漢民族意識の強い林献堂は日本の植民地とされた台湾の苦境を訴えたが、梁啓超の返答はこうだった。「中国には今後30年間、台湾人を助ける力はない。だから、台湾同胞は軽挙妄動していたずらに犠牲を増やすべきではない。むしろ、大英帝国におけるアイルランド人のやり方を見習って、日本の中央政界の要人と直接結び付き、その影響力を利用して台湾総督府を牽制する方が良い」(注1)──当時、アイルランド自治法案の可決に努めていたイギリス自由党のグラッドストン内閣を念頭に置いていたのだろう。

林献堂の熱心な招待を受けて梁啓超は1911年3月に台湾を訪れた。梁啓超としては、自らの立憲運動や新聞事業のため募金集めをしようという思惑があった。林献堂は連雅堂(『台湾通史』の著者で、連戦・元副総統の祖父)を伴って日本からの船が到着する基隆まで出迎え、そこから汽車へ同乗、台北駅に降り立った梁啓超は多くの人々から熱烈な歓迎を受ける。

梁啓超は台湾各地を回って在地の名士たちと語り合った。言葉は通じないので筆談となるが、儒教的伝統の知識人は詩文を取り交わすのが習わしだから問題はない。しかし、在地の知識人は総督府の専制政治への不満を訴えるものの、梁はむしろ日本統治による近代化を評価しており、両者の考えは必ずしも一致していなかった。ただし、平和的・漸進的に政治改革を進めるべきだという梁啓超の示唆は一定の影響を及ぼす。

中国の伝統的な知識人としての自負があった林献堂は、檪社という詩文グループに属していた。檪とは無用の木のことで、すなわち日本統治下では無用の人間という意味合いが込められている。そのような命名からうかがわれるように、詩社には清朝遺民の気風を持つ知識人が多く集まっていた。台中の檪社の他、台北の瀛社、台南の南社が有名で、こうした人的ネットワークが梁啓超歓迎の際にも機能したのだろう。


■林献堂と板垣退助

梁啓超が台湾を去った1911年、辛亥革命が勃発する。1912年には中華民国が成立し、この機会に乗じて清朝の皇帝を退位させた袁世凱が自ら大総統の地位に就く。梁啓超は袁世凱の招きを受けて財政総長に就任した。

林献堂は1913年に北京へ赴いて新政権の様子をうかがうのと同時に、袁世凱政権と対立関係にあった国民党の要人とも接触する。中国の実情を自ら観察した林献堂は、国内がこのように混乱している以上、台湾を助けるどころではないことを見て取った。その点では、確かに梁啓超が言うとおりである。そうなると、台湾人は自助努力によって目標を達成しなければならない。

第一に武力で日本の統治者に抵抗するのは難しい、第二に現時点で中国には台湾を解放する能力はない、第三に日本統治による近代化は一定の成功を収めている──こうした認識を踏まえて考えるなら、日本統治を当面の前提とした上で権利の向上を図るのが次善の策となる。そこで林献堂は、台湾人の地位や待遇を日本人と同等にするよう求めることに民族運動の最初の照準を合わせた。

林献堂は東京で板垣退助や大隈重信などの政治的有力者に面会を求めた。1914年には二度にわたって板垣を台湾へ招く。かつて自由民権運動の闘士であった板垣は、林献堂の話を聞いて台湾人の置かれた差別的境遇に同情した。他方で、国権論者でもある板垣は、日本の南進政策や「日支親善」の架け橋となることを台湾人に期待していた。

板垣の思想は、尊厳と権利の向上を求める台湾人側の思いとは同床異夢だったかもしれない。いずれにせよ、板垣の肝いりで同年12月20日に台湾人差別の撤廃を目指した「台湾同化会」が成立する。こうした動きを台湾総督府は警戒していたが、板垣の名声を前にしておいそれとは手が出せない。林献堂は「中央政界の要人と手を組め」という梁啓超のアドバイスを的確に実行したわけである。ただし、板垣が日本へ帰ると、翌年の1915年2月に「台湾同化会」は解散させられてしまった。


■台湾にも「帝国臣民」としての権利を、六三法撤廃運動とその転換

1910年代以降、日本へ留学する台湾人が増えつつあった。植民地台湾とは異なり比較的自由な東京で先進的な知識や思想に出会った彼らは植民地体制の矛盾をますます認識するようになり、そうした気運は台湾民族運動を新たな方向へと導くことになった。東京にいた台湾人留学生が議論を交わした最重要のテーマが「六三法撤廃」問題である。

台湾も大日本帝国の版図に含まれた以上、本来ならば日本人と同様に帝国臣民としての権利を享受できるはずである。ところが、日本政府は植民地統治の特殊性に鑑みて台湾における憲法の施行を保留し、明治29年法律第63号(通称を六三法といい、その後、明治39年法律第31号に引き継がれる)によって台湾総督の栽量による法律制定を可能にしていた。

つまり、台湾総督府の専制的統治を批判し、台湾も憲政の枠内に組み入れるよう求めるのが「六三法撤廃」問題の要点である。こうした考えから林献堂たちは「六三法撤廃期成同盟」を設立して運動を展開した。板垣退助と共に設立した「台湾同化会」も同様の考え方に基づいていたと言える。

ところで、六三法を撤廃して台湾を日本の憲法の枠内に組み込むと、台湾人を権利面で同等な立場に引き上げることはできるかもしれない。他方でそれは、台湾人を日本人に吸収=同化させてしまうことにならないか?

ちょうど第一次世界大戦が終わり、ウィルソンの提唱した民族自決の原則が世界中で大きな反響を巻き起こしていた時期である。留学生たちはむしろ、台湾の特殊性を強調して台湾自治のための議会設立を優先させるべきだと考えた。こうした論争を受けて、林献堂も1920~21年頃に六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動へと方針を転換させる。


■内地延長主義と特別統治主義、同化主義と民族的自治

憲法を台湾に施行して台湾人にも日本人と同様の権利・義務を持たせる考え方を内地延長主義といい、六三法撤廃運動はこれに依拠していた。しかし、こうした方向性は民族主義的な立場からすると日本人への同化主義と捉えられる。対して、台湾の特殊性を理由として日本内地とは別建ての統治システムを実施することを特別統治主義という。六三法によって憲法を棚上げした台湾総督の統治はその具体化であった。

他方で、これを台湾の特殊性を認めるものと捉えるなら、同化を拒む民族主義的な立場からは自治への方向性を読み取ることも可能である。日本人か、台湾人かという立場の相違、専制的統治か民主的統治かという方向性の相違によって解釈は異なってくるが、いずれにせよ、六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動への方針転換は、権利向上重視から民族的独自性重視への思潮の変化として捉えることができる。

(注1)黄富三《林献堂伝》国史館台湾文献館、2006年、24頁。

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*本記事はブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」の2014年1月20日付記事を、許可を得て転載したものです。
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