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台湾原住民と柳田國男の「山人」論(黒羽)

2014年01月27日

■台湾原住民と柳田國男の「山人」論■

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)


■柳田國男の「山人」論

「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山人山神の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。」

柳田國男『遠野物語』冒頭の一節である。初めて読んだ中学生の頃、ちょっと異様な迫力を感じてワクワクした気分になったことを覚えている。自分の見知った当たり前な「平地」とは異なる世界が「山」にあるというイメージから、ある種のファンタジーをかき立てられた。実際、初期の柳田の書き物に見られる「山人」論には、詩人的感性を持った彼ならではのロマンティシズムが漂っているとはよく言われることである。

「柳田国男の「山人論」とは、日本の山中には先住民族の末裔が今も生存しており、その先住民の姿を山人や山姥・天狗などと見誤って成立したものだという仮説である」と大塚英志は記している(注1)。後年の柳田の「常民」論に対しては、「国民国家」的同質性を成り立たせるイデオロギーだという批判もあるが、少なくともこの時点での「山人」論には国内に抱えた「多民族性」を可視化するレトリックとして作用する余地もあったと言えるだろうか。


■台湾原住民族が「山人」論に与えた影響

柳田の「山人」論には台湾の原住民族、当時の表現では「高砂族」が投影されているとつとに指摘されてきた。例えば、柳田の著した「天狗の話」には「隘勇線」という言葉がさり気なく使われている。「隘勇線」とは、台湾の平地にいた漢族系住民が山地の原住民からの襲撃をしのぐために設けた防御線のことである。

台湾総督府から出された『蕃族調査報告書』を柳田は熱心に読み込んでいた。そもそも、台湾原住民の研究に先鞭をつけた伊能嘉矩は遠野の出身である。柳田は伊能と親交があり、先に亡くなった伊能の遺著を集めた『台湾文化志』の刊行に尽力している。

台北帝国大学文政学部に赴任した政治学者の中村哲は、池田敏雄や金関丈夫が中心になって刊行された『民俗台湾』の編集同人として名前を連ねていた。中村の専門は憲法論であったが、自宅のすぐ近所に柳田國男が住んでいたため、学生の頃から柳田の書斎に出入りしていたという。中村は柳田の「山人」論について次のように記している。

「『遠野物語』から発して『山の人生』に及び、山にひとり住む異常な人間の話は自然の怪奇ではなく、生死の霊妙な人間についての柳田国男の特異感覚を示すものである。が、そこには西欧民俗学からの問題意識、中国の怪奇談、馬琴などの稗史類の着想なしには展開されなかったと思われるものがある。山はかつて人間が死体を遺棄して鳥獣のついばむにまかせた立ち入りを忌む場所であって、しかも、そこには、山だけに住む山窩あり、山の木によって細工をする木地屋あり、一歩道を踏みあやまれば地獄谷と称する野ざらしの死体遺棄所に迷い込む。その峯々をわたる山伏あり、山男、山姥、山女、すべてこれらの「山人は此島国に昔繁栄して居た先住民の子孫である」(「山人外伝資料」)という。これは大陸の漢民族に逐われて寒冷の高地に住みつくより他はなかった台湾の蕃族からの着想によるものであったし、しかもそこには外国文学より得たキリスト教人種に逐われる異教徒の行方にも注意してのことであった。」(注2)

「…柳田が、山の怪に、ときには不気味なほどの好奇心をよせた学問的真意を注目したい。彼の解答の錠は正にこのように科学的であって、彼自身は神秘や奇怪をそのままに信ずる常民の非合理的な態度をそのまま肯定するわけではないのである。この山人についての推測はさきにも触れたことのある台湾原住民が漢民族によって山地に逐いたてられた事例から類推して、この当時公刊された『台湾旧慣調査報告書』による比較研究が基となっている発想であった。」(注3)


■「山人」論と植民地主義

こうした台湾原住民の存在にも触発された「山人」論に対して、村井紀『南島イデオロギーの発生――柳田国男と植民地主義』(福武書店、1992年)は「山人」と「平地人」との対立を見出し、これを柳田の植民地主義のモデルであると捉えている。日韓併合の際、柳田が法制局の官僚として法律整備に関わっていたことにも言及し、柳田に対する視線は厳しい。

他方で、『民俗台湾』の事実上の中心人物であった池田敏雄は柳田について次のエピソードを指摘している。1917年に柳田は台湾旅行に出かけた。各地を一通り回って台北へ戻り、歓迎会に出席したときのこと。「大君はかみにしませば民草のかかる嘆きも知ろしめすらし」と柳田が吟じて、せっかくの歓迎会がシーンとなってしまったという。ちょうど、1915年に起こった西来庵事件で大量の死刑判決が出されていた頃で、そうした異常事態を柳田はこの句で批判していたのではないかと池田は指摘する。さらに、日韓併合に法案整備という形で関与してしまったことについても悔恨の念があったのではないかと推測を重ねている(注4)。

どちらの見解が正しいのかは私には分からない。いずれにせよ、台湾原住民から触発されたとされる柳田の「山人」論をめぐって、植民地主義に関わる議論が提起されていることだけをとりあえず紹介しておく。

柳田國男は大審院判事・柳田直平の婿養子となっているが、直平の弟は陸軍の軍人で台湾総督となった安東貞美であり、國男にとっては義理の叔父にあたる。そうした縁で柳田は台湾旅行に出かけたわけだが、田山花袋が「山の巡査達」(大塚英志・編『柳田国男 山人論集成』所収)という作品でその折の柳田の姿を描いている。

なお、折口信夫も『台湾蕃族調査報告書』を読み、そこから「マレビト」論のヒントを得たと言われる。台北帝国大学の研究者による「高砂族」(台湾原住民)の調査は日本人による本格的な「民族学」研究のパイオニア的な業績である。そして、「民俗学」の成立に関しても「高砂族」の影響がちらつくあたり、近代日本の学知に刻みかまれた「植民地」の存在感をうかがわせる。

(注1)大塚英志・編『柳田国男 山人論集成 』(角川ソフィア文庫、2013年)「あとがき」。
(注2)中村哲『柳田国男の思想 』法政大学出版局、1967年、24~25ページ。なお、原住民が漢民族に追われて寒冷の高地に逃げたという捉え方は実際には正しくない。
(注3)中村、256ページ。
(注4)池田敏雄「柳田国男と台湾――西来庵事件をめぐって」(國分直一博士古稀記念論集編纂委員会『日本民族文化とその周辺 歴史・民族篇』新日本教育図書、1980年)。

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*本記事はブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」の2014年1月22日付記事を、許可を得て転載したものです。
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