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遺族はなぜ紅衛兵の謝罪を拒否したのか?文化大革命の傷が癒えない理由

2014年02月03日

■遺族はなぜ紅衛兵の謝罪を拒否したのか?文化大革命の傷が癒えない理由■
 

爱祖国
爱祖国 / timquijano


2014年1月、有名紅衛兵の一人である宋彬彬の謝罪、そして文革で殺害された遺族による謝罪拒否が話題となりました。謝罪拒否の声明文を読むと、なぜ文革の傷が癒えないのか、その一端が伝わってきます。文末に声明全文の訳を掲載します。


■文革の傷が癒えない理由

昨年来、元紅衛兵の謝罪が相次ぎ話題となってきましたが、宋の知名度は他とは比べものになりません。彼女の署名で書かれた記事「私は毛主席に赤い腕章をつけてさしあげた」は各紙に転載されて文化大革命のムードを作り上げたのあり、文化大革命の火ぶたをきった立役者の一人として記憶されています。

謝罪から間もなく、再びこの問題が注目を集めました。紅衛兵によって殺害された卞仲耘校長の夫、王晶垚氏が「虚偽の謝罪」は受け入れられないとの声明を発表したのです。

以下にその声明の全訳を掲載しますが、ポイントは「時間がたっても悲しみは癒えない」ことではありません。50年近い時間がたっても当時の真相が明らかにされていない。紅衛兵たちの謝罪も真相については口をつぐんでいるではないか、という怒りです。

中国共産党は文化大革命を過ちであったと認めていますが、個々の事態の真相は今なお闇に隠されています。被害者や遺族の無念が晴れない原因、あるいは一部に広がる毛沢東と文化大革命の再評価の動きもこの真相が明らかにされていないことに由来しているのではないでしょうか?

謝罪と声明の詳細については以下の記事を
文革のアイドル紅衛兵も謝罪(中国という隣人、2014年1月14日)
遺族に拒絶される宋彬彬の謝罪(中国という隣人、2014年2月1日)
元紅衛兵の謝罪、遺族が拒絶=「虚偽」と声明-文革悲劇の重さ、今も・中国(時事ドットコム、2014年2月3日)
「虚偽の謝罪は受け入れられない」!文化大革命で妻を殺害された夫、元紅衛兵に怒りの声明―中国(レコードチャイナ、2014年2月3日)


■宋彬彬の主張

声明を理解する手がかりとして、宋彬彬の主張を一部紹介します。2014年1月に発表された謝罪文、2012年に雑誌に発表された回顧文が彼女の主張を知る手がかりとなりますが、下記に今年発表の謝罪文から八五事件に関する部分を訳出しました。

私は工作組が学校入りした後に任命された学生代表会責任者の一人でした。工作組が学校から去った1週間後、校内では卞仲耘校長が暴行しさせた八五事件が起きました。私と劉進(学生代表会代表)は2度にわたり、校庭、裏庭に行き、辞めさせようとしました。人だかりとなっていた学生たちが去ったのでもう大丈夫だろうと立ち去ったのです。ですから卞校長の不幸な死にも責任があります。当時、考えていたのは「工作組が過ちを犯したならば、私たちも後に続いて間違いを犯さなければならない」ということ。さもないと他人から「反対派」と批判されてしまうということでした。ですから卞校長から他の学校幹部に対する吊し上げを強引に止めることはできなかったのです。


宋彬彬、劉進の虚偽の謝罪に関する声明
王晶垚

1966年8月5日、師範大学女子附属中学(現師範大学付属実験中学)の紅衛兵は「傲慢さをこらしめる」と称して、校内で卞仲耘同志を吊し上げました。釘のついた棍棒や銅のバックルがついた軍用ベルトで殴打したのです。身の毛のよだつよな残虐さでした。

午後3時前後には卞同志は倒れ伏していました。全身は傷だらけ。大小便を失禁し、瞳孔が開いているという臨死状態だったのです。しかし紅衛兵は卞同志をリアカーの荷台に置き去りにして放置していました。身につけていたのは大字報(壁新聞)の紙と雨合羽だけ。その状態で5時間も放置されたのです。紅衛兵たちは卞同志の治療を拒みました(通り一つはさんだ先に郵電病院があったにもかかわらずです)。夜8時過ぎになってようやく、卞同志は郵電病院に運ばれましたが、命が戻ることはありませんでした。

卞同志が死んだ翌日、紅衛兵の責任者である劉進は校内放送で叫びました。「善人が悪人を殴るのは当たり前だ!死んだものは死んだのだ。」 良心のかけらもないとはこのことでしょう。

1966年8月18日、卞同志が命を落としてから13日後、毛沢東は天安門の楼で北京紅衛兵代表と接見しました。師範大学女子附属中学紅衛兵の責任者である宋彬彬もその一人です。彼女は師範大学女子附属中学紅衛兵を代表して、毛沢東に赤い紅衛兵の腕章をつけたのですが、その腕章は卞同志の鮮血で染まっていたのです。毛沢東はそこで宋に「武が必要だ」と言いました。

北京市では1772人が紅衛兵に殴り殺されました。その中には多くの教師、校長が含まれています。卞同志の死から48年が過ぎました。しかし八五事件の計画者、そして殺人犯はいまだに捕まっていません。八五事件の真相も今なお故意に隠されたままです。

2014年1月12日、宋彬彬と劉進の2人は「阻止できなかった」「守れなかった」「基本的な憲法の常識、法律意識に欠けていた」などと八五事件で取るべき責任を言い逃れた上で、卞同志や他の殴打された学校幹部やその家族に対して虚偽の謝罪を行ったのです。

卞同志の古き戦友として、夫として、私は以下の声明を発表します。

一、師範大学女子附属中学紅衛兵は残忍にも卞同志を殺害した犯人である。
一、師範大学女子附属中学紅衛兵は卞同志を治療しなかった。
一、八五事件の真相が明らかになるまでは、私は師範大学女子附属中学紅衛兵の虚偽の謝罪を受け入れることはない。

2014年1月27日

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