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香港のデモは「違法行為」なのか?社会契約論とコモン・ローから考える(高橋)

2014年11月12日

香港での民主主義の選挙を求めるデモ活動に対し、「違法行為」との見出しが特に中国(中国共産党統治圏を表す。以下同じ)で見られる(1)。ではこれは本当に違法行為なのだろうか。結論から言えば、イギリス式「コモン・ロー」の適用を認めている香港では違法行為とは言えないだろう。それを解説してみよう。


■社会契約論から考えるデモ活動の自由

デモ活動の自由を論じるとき、それは結局人権とは何か、国家とは何かという根本的な問題にまで遡らなければならない。ここで簡単に国家と人権の成り立ちをルソーの『社会契約論』に沿って説明してみよう(2)。

人間はもともと国や政府のないところ(ここでは「荒野」と呼ぶことにする)に住んでいた。しかし、荒野には盗賊や強盗なども住んでおり、力のない者は奪われる側となってしまった。そこで多くの人間が寄り集まり、「国家」という概念を生み出した(この「国家」を誕生させるために、人間が寄り集まることを「社会契約」という)。国家が誕生したことにより、人間は納税など義務を負わなければならなくなり生活は不便になった。

しかし国家は国家外に対しては「自衛権」を、国家内に対しては「警察権」を持ち、力のない者が奪われるということはなくなり、秩序と安定が生まれた。結果として国家ができて不便な部分もあるが、得られる利益はそれ以上に大きいので、国家は肯定されるようになった。しかし、国家ができたことにより人間がわずかに負わなければならなくなった義務以外は、人間は基本的に荒野に住んでいたときと同じなのである。つまり、納税など一部の義務を除き、人間には荒野に住んでいたときと同じように「基本的に何をしても自由」という権利があるのである。これが「人権」である。この人権観は、人間が誰からもらったものでもなく、自然に身につけたもの、天(あるいは神)からもらったものという意味で「天賦人権論」と呼ばれる。

つまり国家は「人間が便利な生活をするために人間が生み出したのだから、国家は人間が便利になるように『ひたすら奉仕』していればいい」というのが基本的なスタンスなのである。「その根底にあるのは、個人が自己目的であり、社会制度は、それ自体が目的ではなく、人間の道具に過ぎないとする」とも表現される(3)。

また、ここで国家は複数の人間が生み出したものなのだから、実際に誰が国家を運営するのかは、そこに集まった全員で決めようという民主主義も自動的かつ論理的に導かれる。

最も重要なのはこの理論に基づけば、国家は人間が自分たちのために生み出したものなのだから、人間が望まないことをしてはならないという理論をも内在していることである。

「人々はこの目的に必要なだけの自然的権力を国家に譲渡する。譲渡された権力によって国家の最高権力である立法権が生ずるが、これは生命・自由・財産の保証を目的とする人民の信託に基く権利である。したがって、立法者が信託に違反した場合には、人民は抵抗権をもっており、立法者を排除・更迭することもできる。このように立法者は、自然法によって制約されて」いる(4)。

つまり国家が人間の意に反する行為をしようとしたときに、人間はそれに抵抗する権利や革命を起こす権利を持っているのである。


■2047年までコモン・ローが保持される香港

もちろん中国をはじめとする社会主義国家はこの理論を全面的に否定している。しかし中国政府が香港の統治の基本としている香港特別行政区基本法第5条では香港では社会主義制度を50年間は実行しないとしているし、第8条では元の法律、コモン・ロー、エクィティ、条例、慣習を本法に抵触しない限り保持するとしている。

この「本法に抵触しない限り」という留保については、中国の国歌や国旗、祝日、国章、領海、国籍、外交、軍に関する規定のみを解されている(5)。そのため、上記の政府への抵抗権や革命を起こす権利は中国法と合わせて考えても、当然にコモン・ローの一部として香港で認められる権利なのだ。

形式的には不法占拠などの違法行為はあるかもしれないが、もっと大きな視点で見れば香港におけるデモ活動は違法行為でも何でもなく、まさに人間が国家に信託を置かなくなった際の人間による国家への抵抗権行使と解釈されるだろう。つまり、正当防衛などと同様に違法性が阻却されると考えられる。なお、この論理は今年3月頃台湾で起きたひまわり革命にも該当するものと思われる。


■余談1:国家に対して国民は権利ばかりを要求することが許されるのか?

上述の通り、社会契約論の観点からは国家は人間に奉仕するのが前提だ。国会議員・片山さつきは「権利ばかり主張して義務を履行しない国民ばかりというのはどうかと思う」と発言したが、社会契約論の観点に立てば明らかに間違った発言だ。人間に奉仕するのが国家である以上、国家は人間に何の期待もしてはならず、人間は国家に対し「権利ばかり主張して義務を履行しない」でかまわないのである。

権利と義務は一体のように思われている節がある。確かに私人間同士の契約なら、権利と義務は一体にならなくてはならない。しかし、人間は実際には国家とは「契約」を交わしていない。「契約を交わした」という仮定・フィクションの元に社会契約論を構築している。そのため権利と義務が一体という私人間同士の契約理論は、国家と国民の間には成立しない。ここから国家と人間は対等ではなく、やはり国家は人間に従属していればいいとの解釈がやはり導き出される。もっともこれは政治家にとってはやりにくい理論であることは間違いないだろうが…

さらにこの論理を敷衍すると、国家の解体も視野に入ってくる。つまり、国家は人間を便利にするために生み出したものなのだから、国家が「義務」の形で国民を強く統制し、国家があることにより人間が不便になり、「国家がない方が便利」にまでなれば当然に国家を解散させて、元々住んでいた荒野(無政府状態)に戻ろうという論理が導き出されることになるわけだ。


■余談2:非民主主義国での政権の正当性はいかに担保されているのか

このような社会契約論を前提にした国家形成や人権観は当然に中国をはじめとする社会主義国家は否定していると述べた。ならば、民主主義が達成されていない国家では政権の正当性はどのように担保されているのであろうか。

歴史の授業では王は神から権限をいただいたのだから、人間はそれに従わなければならないという論理で説こうとする王権神授説を習うわけだが、他にもさまざまなバリエーションがある。例えば中国はその政権の正当性を抗日戦争の勝利、経済発展の功績、和諧社会の実現と日々変化させながら今日に至っている(6)。

しかし果たしてこのロジックで政権の正当性は本当に担保されているのだろうか。結局のところは、非民主主義政権が維持できているのは「まだ革命が起こっていないから」以外に説明のしようはなく、革命が起こったら非民主主義政権は亡ぶとしか言いようがない。

その意味では上記した国家への抵抗権や革命を起こす権利は社会契約論を受容しない国の人間も潜在的に持っていると考えられる。


(1)「“占中”已不是行使正常的表達自由」『人民日報』2014年10月2日付4面。「違法“占中”者越来越暴力」『人民日報』2014年10月20日付4面など。
(2)田中成明=竹下賢[ほか]『法思想史』(第2版)有斐閣、1997年、47~58頁を参考にした。
(3)笹倉秀夫『法哲学講義』東京大学出版会、2002年、203頁。
(4)田中成明=竹下賢[ほか]・前掲註2)58~59頁。笹倉秀夫・前掲註3)213頁。
(5)廣江倫子『香港基本法の研究―「一国両制」における解釈権と裁判管轄を中心に―』有斐閣、2005年、42頁。
(6)鈴木賢「中国法の変容と共産党統治のゆくえ」『東亜』(535号)33~34頁。
  
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■執筆者プロフィール:高橋孝治(たかはし・こうじ)
日本文化大学卒業。法政大学大学院・放送大学大学院修了。中国法の魅力に取り憑かれ、都内社労士事務所を退職し渡中。現在、中国政法大学 刑事司法学院 博士課程在学中。特定社会保険労務士有資格者、行政書士有資格者、法律諮詢師、民事執行師。※法律諮詢師(和訳は「法律コンサル士」)、民事執行師は中国政府認定の法律家(試験事務局いわく初の外国人合格とのこと)。『Whenever北京《城市漫歩》北京日文版増刊』にて「理論から見る中国ビジネス法」連載中。ブログ「中国労務事情」を運営。

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