中国、新興国の「今」をお伝えする海外ニュース&コラム。
*「お父さんお母さん、どうか安らかに」
*火事で命を落とした1歳の赤ちゃんに両親が送った手紙。
*以上の写真は網易の報道。
ツイッターでは現地を訪れた中国ツイ民が次々とレポートを上げている。献花に訪れたのは遺族だけではなく、予想以上の数となった。警察は動員数を増やし、現場の警戒を強めている。警察の不安は杞憂ではない。1989年の第二次天安門事件は胡耀邦の死がきっかけ。1976年の第一次天安門事件は周恩来の死がきっかけとなった。
もともと人が多く集まる集会は、政治体制にとってそれだけで危険なもの。「集会の自由」が基本的人権に数えられているのは、しばしば集会が統治体制にとって危険な意味を持つためだ。しかも追悼という感情が高まりやすい場では、さらに容易になんらかの事態へと発展する可能性がある。
四川大地震、舟曲土石流、上海高層マンション火災と繰り返される「事件」は、人々の怒りをかきたてるものとなっている。以前の「事件」では、おから工程、救助の遅れや支援物資の横領があらわとなった。今回の「事件」では、行政と癒着した業者による下請けイジメや消防の遅れ、高層マンション火災に対する消防体制の未整備など、汚職や行政の不作為が怒りの対象となった。
ある中国ツイ民はこうつぶやいている。
四川大地震は新たな中国を生み出すことはできなかった。青海地震も何一つ変わらない。上海の大火事は何を生み出すのか。献花の動きが静まった後、再び大火事があるだろう。そして、何も変わっていないことに気がつくのだ。中国の災難は(行政が対応せず、同じような)炭鉱災害がえんえんと繰り返されるだけではない。他の災害も全く同じなのだ。怒りとともにあるのは、同じことが繰り返される絶望だ。炭鉱事故も大火事もそして地震も、同じ中国の「病巣」を浮き彫りにしてきた。果たして人々は絶望するだけで終わるのか。それはまだわからないが、マグマのような怒りが蓄えられ続けていることは間違いない。