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「それでもまっすぐ向かっていく」10歳でエイズに感染した女性の告白記=人々に差別され、行政に無視され……―中国・河南省

2010年11月27日

『血の禍』 ある中国エイズ患者の軌跡

中国の現代芸術家にして、社会運動家の艾未未(アイ・ウェイウェイ)氏(日本語ウィキペディア「艾未未」)。昨年、森美術館で特設展「アイ・ウェイウェイ展」が開催されたので、ご存知の方も多いかもしれない。

その艾未未氏が撮影した映画に「喜梅」という作品がある。河南省のエイズ患者・劉喜梅さんにインタビューした12分ちょっとのインタビュー作品だ。河南省は中国でも貧しい地域として知られ、売血を媒介としてエイズ感染が拡大した。劉さんは1995年、10歳の時に大怪我をし、病院での治療で一命を取り留めた。しかし、その時の輸血でエイズに感染することになる。


*映画「喜梅」。中国語がわかる方はぜひ見て欲しい。

今回、ご紹介するのは、その劉さんが中国民間女権工作室の葉海燕さんに送った携帯メールを集めたもの(葉さんについてはこちらのブログを参照のこと)。脈絡がつかめないところもあるが、だいたいの意味はつかめるはず。日本に紹介して欲しいとの中国ツイ民の依頼を受け、日本ネット民のJunさんが翻訳された。長文だが、劉の思いと苦しみが伝わってくる文章だけにぜひ読んでいただきたい。

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私のこの病気は10歳ごろ、輸血が原因で、私の一生を台無しにしてくれた。95年の夏の有る日の晩、空には月が照り、私たちは麦の収穫の季節だった。私は家でひとりネズミが、その鳴き声が怖かった。私はこわがりでどんな音がしてもおびえてしまうので、大人が畑に仕事にいくといつも付いて行った。麦の収穫は小さな脱穀機をつかうのだが、大人は畑から麦の束を運んで、機械に入れるのに忙しく、私は機械のそばで洗面器や箕を使って脱穀された麦を傍らに空ける仕事を受け持っていた。


そのときはもう夜中の2時だった。眠くなっていたが、もうすぐ麦刈りが終わるのをみて、大人は休む暇もないほど忙しいのだから、頑張るんだ、と自分に言い聞かせていた。そのとき私の髪は腰まであって、頭の上でまとめていた。そして脱穀機の側で身をかがめたとなんんに、自分でも何が起きたかまったくわからないうちに、私の頭は脱穀機の回転する軸に強くぶつかり、目の前が暗くなった。大人たちも仰天して、兄嫁は私の腰をつかんで機械に巻き込まれないようにひっぱろうとした。

*当記事引用部分は、ブログ「わがだいえっとウォーキング 2010」の許可を得て転載したものです。

人々が機械を停止させたときには辺り一面の血だ。私の頭は髪の毛ごと機械の回転軸に巻き込まれてしまったのだ。


叔父さんが手で衣服の上からしっかり私の頭を押さえつけたので、「やめて、痛い、なんでこんなに熱いの?」と聞くと、叔父は泣きながら「おまえ、髪が頭の皮ごと巻き込まれたんだよ、こうして押さえていても血が止まらないんだよ」と叔父は泣き続けて私に話をしないようにいうのだった。私はかあさんに知らせたら大変、きっとショックで眠れない、と思ったのが最後で私の意識は遠のいていった。


目が覚めた時は病院で3日も経っていた。顔は腫れ上がり、頭は痛んだ。のどから頭まで全部白い包帯で包まれていた。腕も怪我しいて、服は真っ赤に染まっていた。私は泣いた。顔も唇も痛かったし、不安で、お腹もすいていたが、何より悲しかった。


兄が買ってきたラーメンをみてとても食べたかった。食べたいと思っても水を飲むのも痛くてつらいのだが、家が貧しかったから、どこかでこんな普段食べられないラーメンが食べられたらどんなに嬉しかったろう。でも口は痛くて食べるどころではなかったし、ただ毎日ストローで水を飲むだけだった。


その病院では親戚の血を輸血することは許されず、ただ血を買うことによってタンパク質とか、血を補給することができたが、そしてそれは私を救ったのだが、同時に私の一生を台無しにしてくれた。


そう、それが新祭県人民医院の医療だった。ある病院でよんだ本の中に「髪は女の命」とかいてあった。でも私は、一年中、夏も冬も、寝る時も帽子を被っている。それというのもあの日、あの時、私の運命が、こんなにつらいものに変わったのだ。


2004年10月、鄭州省防疫ステーションからエイズの話がでたときすべての人は仰天した。鄭州から戻って、家で半月あまり、治療にもいけず、食事は別にされて、隣の家の人は私を避け、変な目でみられて、親しい人とは遠ざけられ、そのうえ差別され、私はもう死にたかった。


心の中では早く死ぬ事ばかりかんがえていた。二番目の小父さん以外、会いたいとおもう人はなかった。いつも混乱して、もし母が生きていたらきっとこの病を怖がらなかったろうとおもった。絶望の日々だった。


家に居た半月の間、夜になると二番目の叔父と兄が門の前にうずくまって、絶えずタバコをすって咽せながらいた。私は高熱でまったく動けなかったが、彼らの話す事はわかっていたし、タバコのニオイをかぎながら、こんな様子をみてますますつらかった。


食事がのどを通らなかったので、二番目の叔父と兄は交代で私に水をのませてくれたのだ。でも、水ものどを通らなかった。のもうとしても吐いてしまうのだ。部屋の中はため息と悲しみでいっぱいだった。


十月のひえた空気の中でかれらはずっと咳をしていた。この晩、村の人は私がもうダメだと聞いて何人かの人がきて入り口でこんな話をしていた。「なんか食べたいものあったら買ってくるよ」。ほんとなら喜ぶところなんだろうが、私は「本当に自分は死んでしまうのだろうか」とおもうとなんともいいようのないつらさだった。


私は誰とも話をしたくなかった。おばさんたちは「あの子はなにもたべられないし、水を飲んでもみな吐いてしまうのよ」「あなたがたもこんなところにいると冷えて病気になるよ」「おじさんはもう都市なんだから身体が持たない、休まないとダメよ」とかいろいろな話をきいて、私は死ぬに死にきれないでいるのに、2番叔父を病気にさせるなんて。黙って涙をながすだけ。


私はこの家で生まれた子ではない。かれらの養子なんだ。それなのにこうしてくれるなんて、みんないい人なんだ。こんなにお世話になっているのになんの恩もかえしていない。


一晩中、叔父も兄もタバコを吸って咳をしている。十月の夜はほんとうに寒いのに、毎晩そうしてくれているのをみると私もねむれない。身体の痛み、毎晩の発熱、病気はほとんど堪え難いほどで涙がとまらない。この世をはやく去りたい、この病気から自由になりたい。こんな状態では死ぬこともできず、彼らに迷惑をかけるだけだ。


叔父がそんな私を見て気が気でない様子で私の心は更に痛んむ。叔父に「私、街の病院にいくから」というと叔父は「もう、夜だからね、おまえはまだ熱があるし、夜があけたらいこう。こんな状態で病院にいったらもう戻って来れないよ」と言った。こうして2番叔父は私の面倒を1年近くみてくれた。入院したころ払ったお金で叔父もおばのお金も私の為になくなってしまった。


それで彼らの間で諍いもおきた。お金がすっかりなくなってしまったので、2番叔父は道路工事の仕事にでて私の生活費を稼いでくれた。


そんなとき、おそろしいエイズの血が私に輸血されたのだった。それから今日まで、みんなに差別され、あざわらわれ、閉じこもらなければならない暮らしを余儀なくされることになった。一生怨んでも恨みきれない、決して忘れる事のない日々をおくらねばならなくなったのだ。


私は家に帰りたかった。でも、私が帰りそうだ、という噂が広まると、ある人はあわてて仕事にでかけたり、私のことで家中喧嘩になった。兄嫁は、家が狭いし4人でいっぱいで、叔父もいるし、私の居る場所がない、といった。


両親のいる子がうらやましかった。そしたら思い通りにならない時もそういえるし、愚痴もこぼせるだろう。


私はいま のこんな状態で学校の友達にあいたくなかった。一緒に遊んだしってる顔もみたくなかったし、彼らに会うのがこわかった。


きっと私のことを聞いてるだろうし、びっくりするだろう。


そうおもうとますます心が痛んだ。兄がみまいにきてくれて帰って行ったあと私はとうとう我慢できずに泣いた。泣くのもつらかったがしかし泣きあかすと気持ちがすこし楽にははった。この病気はコントロールできるが根治させることはできないのだ。



2009年4月1日、2級障害者証をもって生活保護をうけようとた。だが、化庄県の役場は私が生活保護を受ける事を今に至るまで認めてくれない。ずっと書類がないとかいわれつづけている。


もう20歳にもなって、こんなに大きくなって、悲しい。死んだ方がいいのに生きている。したい事はなにもできない。小さい頃夢見たことは水の泡。以前の友達ももういない。すべてが悪夢のようだ。昔の元気活発な私にもどれたらどんなにいいだろう。


この病気のせいで私は生きていたくないとおもうようになった。ああ、自分の家族、自分の家があったらどんなにいいことだろう。病院にいるんじゃなくて、家にいて、そして家族が自分を恐怖の目で見るようなことがなく、影でこそこそいわれたりせず。自分も脅えないで暮らせたら……。


ここでは私ひとり、ときには病人仲間がくることもあるが、彼らがいってしまうと私には子猫と子犬しかいない。小さい頃、猫がきらいだったが、今は猫たちだけが私と一緒に居てくれる。猫達とあそんでいるときだけ、私は気持ちが軽くなる。


私の食事はおいしくないけど、でも分けてあげるんだ。もし少しでもおいしいときは、おおくわけてあげる。だって猫だけが私にあたたかく接してくれるんだもん。私が家に帰りたいなんていったら、お兄さんと兄嫁がきっとまた喧嘩して面倒になることをしってるし。


私がかかったエイズは、結局のところ”伝染病”であって、兄夫婦の家庭に悪影響を及ぼすし、特に男の子に、「叔母がエイズにかかっている」、なんていったらたちまちフラれてしまうだろうし、迷惑をかけないためにも、私は病院にいるしかないのだ。


2007年、私はどこにも行く場所がなかった。本当に穴でもあれば入って隠れてしまいたいほどだった。このおそろしいエイズにかかってこんな有様になって、私は運命を呪うしかなかった。


人をののしることはしなかったのに、なんで自分はこんな運命になっちゃったのだろう。私は村の役場に行って呉という人にどこか私が居られる場所をさがしてくれるようにたのんだ。病院だって、どこだってとにかくありさえすれば、どうせどこにも行く場所がないのだから彼に感謝した。だれもが私をみたら、みな病気がうつるのをおそれてにげだす。


私は年齢を聞かれるのがこわかった。自分でもしらないのだ。誰かが24歳から27歳の間だといった。身分証には82年とかかてれいるが、裏面の生年月日も違っている。私は学校をやめて深圳で働こうとおもったが、年が若すぎたので工場につとめることはできなかった。この身分証は学校の先生が助けてくれて手に入ったものだ。


あのころは住所があってさえすればよかったのだ。でも、私が18歳未満だったので、ダメだといわれた。ただこうして大きくなったのでいまだに一体自分はいくつなのかわからない。むかし私の生母にいくつかきいたことああるが、25歳だといった。


人は1年に一歳としをとるのだが、私は数日でいくつも年をとってしまったことになる。母は、私をおいて逝ってしまったので私はとても悲しかったし、母のことがとても恋しかった。


私は貰い子だったが、母はとても自分の子以上に私を愛してくれた。とても貧しかったがいつも私にはやさしく怒られたときだってあたたかかった。でも今、私はもう帰る家もない孤児だ。もし母の命ととりかえられるなら、そうする。


この一切の病気のせいで苦しい思いを考えたら、死んだって平気だ。私は疲れた、精神もすり減ってもうダメ。もし普通の人と同じ様に少なくとも住む家があれば、心は耐えられるだろうが。たった2間の家でもいいから、自分の家があったらな満足だ。


2007年、洪水がおきて、私は化庄村の役場に、家のことで洪水で部屋の補償をしてほしいといったが、はじめは村役場は上につたえたがらなかった。何回も通って家のことを訴え、李所長は「伝えた」といったが、その後電話で「部屋ができた」と尋ねると、「上に伝えた」とだけ。でも家の方にきくと、影も形もない、という。


私は腹を立てて県の民政局に行くと袁という局長が応対して「そんな話は聞いてない」という。「そんなばかな」といったが、所長はその話を上にあげていなかった。


幹部なのにどうして人を騙すのか。やる、といったことをやらないで。袁局長は、もし上がってきていたら自分にはわかるはずだが、化庄村の書類には私の名前がない、という。今にいたるまでそのままなのだ。


2009年1月12日、この日私は朝早く県委員会へいき、ホールで史県長にあって事情を説明した。県長はすぐ化庄村の張書記に手紙をかいて直接、張書記に渡して、家と経済的な困難の解決をはかるようにと言った。



史県長の手配で、張書記は600元の問題で民政所に解決する様にいい、私は民政所は私に400元払った。400元だったけど、私はうれしかった。これで2か月は十分食べられるのだから。


私は1日1回しか食事をしないし、これで師走(旧暦の)の分になる。それにこれははじめて政府が私に払ってくれた多額の援助金だし。でも疲れた。毎回県委員会にいく日は一日中なにも口にしないし。


でも史県長は6月には家もたてられるといってくれたし。が、村の役場は引き延ばしに、村の委員会とそうだんするとか、養老院に住めとか、獣医住宅や、ボロボロの村の委員会の建物に住めというのである。またしても話は決裂した。


建てる場所がないとかもう空中に住め、とかとにかく建ててくれはしないし、口汚く私を罵るのだった。私も時には激しい事を言ったがでもあの役人達の様にひどい言葉はいわなかった。


あれが共産党員たるものの言い方なんだろうか。どこにも村の幹部の重みはありゃしない。汚い言葉をつかって。8月6日になっても問題は解決しなかった。


私はまた県委員会へいき、彼らは化庄村役場に電話をした、で村役場では村の職員私のところにこさせて解決するといったが、しゃべるばかりでまた同じ事だった。


彼らは警察を呼んで私を追い払うことまでしたが、警察も私をしょっぴく理由はなく、ただ帰れ、というだけだった。帰れば問題解決、毎回そういうが、私が帰ってもなにも問題は解決されなかった。またもどっても担当者は居ないし、居ても話を聞いてくれなかった。


2009年7月3日、私はまた県委員会政府の史村長をたずねた。それしかなかった。彼らは私の家のことをかまってくれないし、で、史県長はエイズの事を担当していたからだ。


史県長はまた村の張書記に手紙を書いた。やはり部屋の問題の解決のためだった。だが、村政府は私に家をたてるための土地をさがせと、また、さがせなかったら、空中にでも建てるんだな、とひどいことをいったが私は黙って聞いていた。


彼らは明らかに私をこまらせようとしているんだ。他の人にはたててやっても、私はひとりだし、身障者だし、行動もロクにできないし。でも私は引き下がらなかった。村の主任を尋ねて、状況を説明した。主任は土地をさがしてはくれたが、でも村の役場はお金を払うのが嫌で、2、3万元かもっとないと無理だと。


どのみち建ててくれないんだ。もし家があったら、病院に何年もいないよ。何年ものあいだずっと人にあれこれ指図されてくらすなんで誰もがいやだし、誰かと本当におもってることを話したいとおもったって誰もいないんだもの。


出かけるといつも人に、「あんたは全身が病気だらけなんだ」とかいわれて、うんざりする。もうそれで家からでたくなくなったりする。こんなプレッシャーで毎日自分をおさえていると、だれだって仕事にやとってくれないよ。


私が服飾店をひらきたいな、なんていうと人は「あんた自分で食べる事もできゃしないのに、どこにそんな店を開くおかねがあるのよ」といわれる。でも、夢をみることもできないの?そう、自分で食べるものろくにないのに、全部他人におせわになって、一椀の麺や油をもってきてもらったり、お金をもらったり、兄嫁にかりたり、そんなこといやなのだ。


私は障害者だけど、でもこんな風に助けてもらいたくない。こんなふうに施しを受けていると更に悲しくなるし、心が痛むし、自分にも圧力を感じてしまう。毎月の生活保護費はたった60元(780円)、私は04年10月に入院して、2006年の下半期からやっと生活保護がもらえたのは1年も引き延ばされた後の事だった。その理由は彼らに贈り物をしなかったからだ。


まさにその理由によって、私は郷政府に借金しようとして、結果はしってたけどやってみたらやっぱりそうで、2007年8月6日、河南省政府は文書で、エイズの病人の居る家庭で政府の援助を必要とするものを報告せよとある。


もし私が健常者ならこんな病気でなかったら、仕事をさがして、役所のエラい人に迷惑をかけたりしない。それなのになぜ文書がいったん下の方に下りてくるとこんなになっちゃうんだ?まさか百姓は物が分からないから、騙してもいじめてもいい、とでもいうのか?


それどころか、彼らの話し方も口汚く、酷薄で、冷たい言葉を平気であびせ相手にしようとしない。そのうえ相手を見下し怖がらせるような目つきでみて、悲しい思いをさせる。人間は良心を大事にすべきなのに、私はあの役人達をもう信じる事はできないし、同時に連中のやり口と、正体をしってしまった。一体良心はどこへなくしてしまったんだろう。


小さい頃からわからなかったが、今はわかる。なぜみんなが役人には勝てないと言っているのか。あのときの下っ端役人はすごく悪い奴らなんだ。でも古いことわざにもあるとおり、「正義の理は天下に通る」だ。


国の書類は私たちに関心を寄せてくれているし、私を頑張っていくようにはげましてくれている。そのうえボランティアのみなさんや大学生や有名人の人たちまで勇気をもって頑張る様に親切に励ましてくれているじゃないの。


私たちに確固とした信じる心をあたえ、たとえ役人が悪いやつらでも、すべてが買収されているわけではない。


私はもうお金をみんなつかってしまったけれども、でもたくさんの人が私や同じような病気の人たちにに関心をもってくれて、助けてくれている。多分、いまこの社会では私のような目にあったひとは少ないのだろうが、毎日お金の事が心配だったり、あす食べるものがないと心配だったりする人はどんどん増えている。


私はこの病気の人たちからお金をかりているんだけど、生活保護費が半年かかってももらえたらすこしづつ返せるし、大変だけど、でもうれしいんだ。私たちのことを馬鹿にして嗤う人もいるのはしってるよ、だけどもうこわくないの。だってそんな人たちの視線に負けないもの。


簡単に命をあきらめない。応援してくれる人たちに顔向けできないじゃないの。きっと言い分を認めさせる。上が下にちゃんとした命令を出したというのに、なぜいつまでもやらずに引き延ばしているのか。貧乏人だって誇りはあるわ。勇気を持って、誰にみられたってもう怖がらない。自分の行くべき路にまっすぐ向かって行く。

(執筆者:Jun) Twitterアカウントはこちら
*当記事引用部分は、ブログ「わがだいえっとウォーキング 2010」の許可を得て転載したものです。
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