中国、新興国の「今」をお伝えする海外ニュース&コラム。
2011年05月11日
記者の質問は多岐に渡りました。寄付金の水増し、慈善名目での土地囲い込み、慈善行為を始めたきっかけ、なぜ大々的にパフォーマンスするのか、東日本大震災被災地で慈善行為を行った経緯など……。同氏は記者の質問に一つ一つ丁寧に答えています。疑惑が完全に晴れたとは言えませんでしたが、その姿勢は十分真摯かつ誠実なものであり、慈善行為について真剣に考えているということが映像、そして言葉から伝わってきました。
両親の苦言と反省の涙
特に印象的だったのは、番組後半の両親のインタビューです。陳氏の両親はやはりパフォーマンス慈善を苦々しく思っていたようです。
父親は、「人の言う事を聞いていればこんなことにならなかったんだ。自分がやったことなんぞ、お天道様と自分だけが知っていればそれでいい。毎日、他人に言いふらすもんじゃない」と苦言を呈しました。母親は「慈善行為をおおっぴらにやらないよう促している。もし、ひっそりとやっていればこんなことにならなかった」と言って、泣き出しました。
その映像を見た陳氏は、帰宅する車の中で、「自分のやり方を変えます」と言って、涙を流しました。同時に「慈善事業であせりすぎた」と述べました。これまで慈善事業について強気の発言を繰り返してきた同氏が、初めて反省の言葉を口にしたのです。
慈善事業に関心を持ってもらう為だったと発言
過剰なパフォーマンス慈善には理由があったと陳氏は番組内で説明しています。それは「人々に慈善事業に対して関心を持ってもらうため」だったと言います。
東日本大地震支援のために、千葉県で救援物資を配った時には、これみよがしに巨大な五星紅旗を車のボンネットに貼っていたことが批判を集めましたが、これも「災難に見舞われた時、真っ先に救援に駆けつけるのは中国人だということを日本人に知ってほしかったからだ」と説明しています。
「良い事を行うなら、ひっそりと」が美徳となっている日本人にとって、これらのパフォーマンスは理解しがたいと考える人が大部分でしょう。私自身も同氏のパフォーマンスは自己満足によるものではないかと思っていた1人です。日本人として、私は陳光標氏のパフォーマンス慈善に手放しで賛成はできません。
氏への見方が変わった今回のインタビュー
見方を変えれば、慈善活動を行うにも周りの目を気にしなければならない日本の社会とは対極的であるとも言えます。誰もが良い事を行いたいと思っている。しかし第一歩が踏み出せない。同氏のパフォーマンス慈善に辟易する前に、私たち日本人一人一人が「自分はどうなのか。周りの目を気にしないで堂々と慈善行為ができるか」ということをしっかりと考えるべきなのではないかと感じました。
そして彼の苦悩は実のところ、慈善活動をするのに回りを気にするのは中国でも同じであるということを示しています。やり方に強引なところがあるにせよ、慈善事業がさかんではない中国において、身をもってその重要性を訴える陳光標氏のような存在は貴重だということを再発見したインタビューでもありました。
私自身、今回のインタビューを通じて、少しではありますが、彼に対する見方が変わりました。
*当記事はブログ「中国語翻訳者のつぶやき」の許可を得て転載したものです。
*追記
陳氏の「涙の反省」によって、バッシング一色だった中国メディアの論調は一点。擁護する声のほうが多く見られるようになりました。
中国には、四川大地震の義援金が地元政府の財政に組み入れられていた問題や、上海赤十字職員による公費での高級レストラン飲食など、義援金の流通に問題があります。ゆえに「被支援者に手渡しする」「メディアを通じて、寄付の事実を明らかにする」陳氏のやり方も一定の合理性があったとも評価できます。
一方で、水増しや架空団体への寄付といった問題に十分に回答できていないようにも感じるのですが。陳氏は一代で大手建築解体企業を作り上げた企業家ですが、権力と密接な関係を築かなければ成功できない業種だけに、後ろめたいこともいろいろあるのではないかと思うのですが……。陳氏に向けられた疑惑の背景には、「悪いことをしなければ、大金持ちになっていないはず」という疑いの視線があるように思います。(Chinanews)