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1950年代の少数民族蜂起=漢民族の歴史と少数民族の歴史―チベットNOW

2011年05月19日

李江琳「50年代少数民族地区での土地改革と鎮圧」

李江琳女史は5月10日、自身のブログ「チベット、もう一つの真実」でエントリー「50年代少数民族地区での土地改革と鎮圧」を発表した。翌11日、チベット人の作家・ウーセルさんがブログに転載。記事を紹介している。

李江琳女史( @JianglinLi )は米国ニューヨーク在住の、チベット現代史研究者。「チベットNOW@ルンタ」で紹介した論文「青海草原に消えた亡霊」の著者でもある。今年1月には『1959年ラサ!―ダライ・ラマはいかにして脱出したか』(中国語)を台湾で出版。ダラムサラで出版記念記者会見も開催した。

同作では1959年の「チベット動乱」を取り上げ、動乱が中国共産党によって仕組まれた(計画され、扇動された)ものであったと論考している(*@uralungtaさんの解説による)。


Tibet-5872 - Gyantse Fortress / archer10 (Dennis)


*当記事はブログ「チベットNOW@ルンタ」の許可を得て転載したものです。

原文:李江琳「50年代少数民族地区での土地改革と鎮圧」

翻訳:雲南太郎(@yuntaitai)さん(*抄訳)。

中国共産党の民族政策の変化は、大まかに言って、

「民族自決の支持」→「地方自治」→「地方民族主義反対」→「反乱平定」

というサイクルを描いている。「民族自決の支持」は政権を奪い取る過程で統一戦線を構築するための策略に過ぎない。「建国後の重要文献集」1巻収録の「『少数民族』自決権問題に関する共産党中央の人民解放軍第2野戦軍前敵委員会への指示」は、はっきりとこの点を説明している。


『少数民族』自決権問題に関する共産党中央の人民解放軍第2野戦軍前敵委員会への指示

国共内戦期、西南、西北の各民族は基本的に中立を守っていた。青海省の馬歩芳などわずかな例を除き、内戦にかかわったり実力行使する民族はいなかったのだ。多くの民族は昔から高度な自治を持ち、外来の政権が打ち立てられることはなかった。一般民衆は漢族主体の共産党と接触したことがなかった。民族雑居区以外で漢人との接触はなく、初めて見た漢人は土地改革のためにやってきた工作グループだった。

私の研究は1950年以降のチベットの歴史と亡命史に限られており、ほかの民族について専門的に研究したことがない。資料も、チベット関連の資料を探した時に偶然見かけたものしか見ていないことを断っておく。

私が把握している資料によれば、55年から60年代初頭にかけ、少なくともチベット、モンゴル、フイ、トゥ、モン、イ、ワ、サラールなどの民族が暴動を起こし、過酷な軍事鎮圧に遭った。そのうちチベット人の反抗は長く、規模も大きい。その次はイ族だろう。涼山イ族は55年11月に抵抗を始め、チベット人と同じ鎮圧過程をたどり、正規軍が抵抗者を虐殺した。これらの民族の不運は今まで専門的に研究されておらず、史料も限られていることだろう。いまだに中国現代史の空白だと言っていい。これらの空白を埋めないのなら、中国現代史は欠けたものになる。

なぜ少数民族は抵抗したのか?これは1955年に少数民族地区で始まった社会改造の強制と関係している。共産党史は「中国革命」を2段階に分ける。1949年以前は「新民主主義革命」。その後、数年の過渡期を経て始まった社会改造は、「社会主義革命」と呼ばれている。少数民族地域を除けば、この2段階の革命は1955年前後にはほぼ完成している。

少数民族地区の土地改革では、注意すべき問題がある。少数民族の社会改造が「民主改革」と呼ばれ、「土地改革」と呼ばれない点だ。つまり、共産党の理論では少数民族地区はまだ「新民主主義革命」を経ていなかったため、2段階の「中国革命」を同時に進行する必要があったことに由来している。すなわち「土地改革」と「合作化」の同時進行だ。

ゆえに、プロパガンダが言うところの「土地分配」は名前だけのものだった。2段階の「革命」と同時に、反革命鎮圧、国家の統一買付・販売制度、「宗教制度改革」などが進展した。その結果、民衆の抵抗、武装蜂起が起きることとなった。共産党はなぜ民衆に政策が受け入れられないのかを省みることなく、すべてを「武装反乱」と定義し、武力で鎮圧した。

貴州少数民族地区工作隊の活動を伝える資料は、少数民族の待遇が寛大とはほど遠いものであったことを明らかにするものだ。この内部資料が伝えている状況は氷山の一角に過ぎないのではないか。実際の状況は遥かにひどかったのではないか。

工作組は漢人中心、ある地区では全員が漢人だった。軍隊ももちろん漢人だ。だから、少数民族が当時の問題の責任を負うよう漢人に求めるのは当然だろう。私たち漢人が居心地悪く感じるのも仕方がない。それまで漢人を見たことなかったチベット人たちに、「圧政者は共産党であり、一般の漢人ではない」と区別を求めるのは非現実的だ。


『甘粛省誌・軍事誌』より臨夏回族暴動関連の記述
『四川省誌・軍事誌』より涼山イ族鎮圧に関する記述

この2つの公開史料を見てみよう。まず、最初に一言述べておくと、投降者と捕虜はほぼ全員が捕まり、労働改造農場と「集中訓練班」に送られ、大多数が死亡した。

カム暴動の原因について、共産党の公式見解は、ダライ・ラマがチベットに戻る途中に、ティチャン・リンポチェと索康(ガルン・スオカン?)が「扇動」したというもの。しかし、イ人の暴動についてはダライ・ラマを非難しようがない。ではイ人はなぜ同じ時期に暴動を起こしたのだろう?

数十年来の共産党公式見解は常に少数民族地区の発展、少数民族の優遇政策を強調しているが、史実はまったく異なる。例えばセルタでは、70年代になってようやく県内初の中学校ができた。現地幹部の子弟のためだ。現在でも少数民族居住地の多くは車道がなく、それどころか粗末なトイレさえない。

私たち漢人がこれらのプロパガンダを信じたがるのは、漢人が少数民族に対して抱いてきた「救世主願望」に合致するストーリーだからだ。自分たちは「中央帝国」に属しており、彼らは「蛮夷」である。「蛮夷」には、漢文明による「教化」が必要なのだというストーリーだ。

公開資料には、「反逆者」が漢人幹部を殺す血なまぐさい描写をたびたび出現する。しかし、土地改革工作隊がどう少数民族を傷つけたかが分かるのは、非公開の「内部参考」(内部資料)だけだ。「反乱鎮圧」過程で共産党軍は少数民族に極めて残酷に振る舞った。捕虜殺害や爆撃などの事実は、公開資料では「政策違反」としてわずかに触れられているにすぎない。

大きな苦難を経験してきた少数民族は沈黙を強いられてきた。自らの体験や感情を口にすることも許されない。こうして歴史はプロパガンダに取って代わられることとなった。しかし、公にされない歴史は多くの民族の中で集団的記憶の一部分として伝えられている。共産党サイドの史書が言うところの「反逆者の首領」は、彼らにとっては民族の英雄なのだ。

このことは私たち漢人が避けては通れない歴史だ。中国の主要民族として、私たちはこの歴史に向き合わなければならないし、少数民族が自分たちなりの歴史解釈、歴史的感情を持つことを認めなければならない。

公にされない、少数民族の歴史を私は知っている。だから、中国が民主化されれば、民族間の衝突も自然と解決されるなどとはまったく考えていない。このことは、未来に誕生するであろう民主的な中国が継承しなければならない負の遺産なのだ。衝突をどう解消するのか?民族の和解をどう実現するのか?私たちがやるべき第一歩はプロパガンダを排除し、史実を知り、他民族の感情を尊重することだ。
*当記事はブログ「チベットNOW@ルンタ」の許可を得て転載したものです。

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