中国、新興国の「今」をお伝えする海外ニュース&コラム。
2011年05月24日
原文:重又放映《农奴》,又能洗脑多少?
文/ウーセル
翻訳:雲南太郎さん(@yuntaitai)
3月28日は中国共産党が制定した「チベット100万農奴解放記念日」だ。この日、チベット電視台衛星チャンネルで、プロパガンダ映画『農奴』がおごそかに放映された。この映画を見ると、「赤い悪魔」に強力に洗脳されていた幼少時代に戻ったような気がした。そう、それは「赤い悪魔」としか形容できないものだった。
悪魔は数十年来、「解放者」「大恩人」を気取りながらもチベットをゆっくりと丸のみしようとしている。作家としての立場で見れば、同作は権力者がどのように歴史を書き換えるのかを研究するチャンスだ。しかし、かつての被害の記憶から、画面からあふれだすでたらめに耐えることはできなかった。私は嫌悪のあまりテレビから離れてしまっ た。
チベット国際キャンペーンは2009年、本土チベット人の文章を集めた書籍『Like Gold that Fears no Fire: New Writing from Tibet』を出版した。詩歌やエッセイ、日記、芸術批評、評論などの多彩な形式を通じて、2008年3月の抗議やチベット人が受けた監禁、尋問、迫害などを伝えている。
序文を担当した私は次のような言葉を寄せている。「半世紀に及ぶ強制的な洗脳教育を経た今、最も恐ろしいのはゴンパが破壊されたことではない。記憶が消され、改造されたことが恐ろしいのだ。記憶を求めること。回復、修復させ、歴史と現実を再現すること。これは私たちの責任となっている。」
こう痛切に感じているのは、半世紀以上にわたる中国政府サイドのやり口が、その言動や権威体制を通じて、自分たちが必要とするやり方でチベットを「紹介」し、ねじ曲げ、永遠にコントロールしようとする企てにほかならないからだ。
そして歴史と現実を消去、修正する過程で、真相は覆われ、恐怖は隠され、チベット人は沈黙せざるを得なくなった。「赤い聖典」と評価されている映画『農奴』こそ、チベットの歴史を書き換えた最初の映画と言えるだろう。
『農奴』はチベットを扱った無数の文芸作品にさまざまな影響を与え、その後、数世代にわたる中国人のチベット認識に計り知れない誤解をもたらした。だが、この映画の「物語」はとてもつたないものだ。イデオロギー上の必要から、チベットとチベット人、特に宗教と文化を差別的に描写し、化け物のように表現している。それは中国による植民行為に、権力と合理性を持たせるのが目的なのだ。
映画の物語が伝えようとしているのは、遅れた、野蛮なチベット人として生きるのは不幸だということ。毛主席が派遣した金珠瑪米に救われる以外に生きる道はないということだ。
(金珠瑪米はジンジューマーミーと発音する。「苦しみから救ってくれる菩薩の兵士」の意味で、人民解放軍を指す)
しかしながら、『農奴』は本当の意味での映画ではない。当時の軍事的な帝国主義行動や政治的な帝国主義観念、今日の各方面での帝国主義的な意図を映画というスタイルで組み合わせたに過ぎない。帝国主義観念は、植民征服を実現する、重要な精神的な武器だ。
共産党は、チベット社会を「半封建半農奴制社会」と位置づけている。チベット民族に対する評価は『農奴』の中にあふれている醜い描写が示すとおり。チベットは極めて劣悪な不毛の地と描かれている。
つまり、同作のすべては、共産党がかつての侵略者とは異なる存在であると証明し、中国のチベット「救出」宣言に裏付けを与えるものなのだ。だが、皮肉なことに、劇中で「解放」された農奴・チャンバを演じていた役者は今、作品内で激しく批判されていたチベット仏教の信奉者になっている。
『農奴』は実際のところ、侵略者が握るもう一つの銃だった。ただ今では少し時代遅れになったというだけだ。かつて私は『農奴』のプロパガンダの中で育った。ツイッターで「チベット電視台衛星チャンネルが紅色映画の『農奴』を放送してる」とつぶやくと、すぐにリプライがあった。「典型的な洗脳映画だ。数え切れないブタを毒した。そして、自分もその一人だった……」、と。
「赤い悪魔」のプロパガンダが失敗したことは明らかだ。何度、『農奴』を再放送しようとも、解放されたはずの、いわゆる「農奴」の子孫たちが2008年に街頭で抗議の声を上げたという事実を説明できないからだ。そして、ンガバ(四川川省アバ県)の若い僧侶プンツォが焼身自殺によって絶望と抗議を伝えたという事実も。
2011年3月30日北京にて
(RFA特約評論)