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革命歌旋風が吹き荒れる中で=今あえて文化大革命を語る―北京で考えたこと

2011年06月17日

紅歌吹き荒れる中、今あえて文化大革命を語る

■紅歌ブームの裏側で迎えた45周年


今年は中国共産党建党90周年。

というわけで各種イベントが準備されています。テレビは革命や抗日など共産党の功績を讃える番組が数多く放送されています。また政治の世界では共産党の歴史を讃える歌、いわゆる「紅歌」を歌う運動が重慶で提唱され、重慶市トップの薄熙来の存在がクローズアップされています。もちろん賛否両論ありますが。来年の指導者交代を見据えて政治の季節真っ盛りと言ったところです。

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*こんなプロレタリアアートが「リアル」だった頃のお話です。

*当記事はブログ「北京で考えたこと」の許可を得て転載したものです。


その90年の共産党史のちょうど中間点に起こった出来事、中国現代史の大きな激しい時代について、貴重な口述史、オーラルヒストリーに出会いました。雑誌「財経」5月23日号の付録誌『Lens視覚』の特集「文革45周年 記憶と再考」(中国語、有料記事)です。その激しい時代とは文化大革命のこと。今年は文革が本格的に発動されてから45周年にも当たるのです。

近年でこそ完全なタブーではなくなった文革史ですが、それでもまだ生で体験している世代も多い中、生々しい記録は中国メディアで多く語られるものではありません。今現在も、新浪微博(中国ツイッター)でも「文化大革命」「十年動乱」は検索禁止ワードになっています。何故か略称の「文革」は検索できるのですが。
(「十年動乱」とは文化大革命の別称。10年続いたことに由来する)

合計66ページの超骨太企画なので、全容を紹介するのはとても無理。筆者が印象に残った、驚いたエピソードをいくつか抜粋したいと思います。詳しくは同誌を是非、語り尽くせぬほどのエピソード盛り沢山です。

・(元紅衛兵)1966年8月18日、毛沢東主席が紅衛兵と謁見。その前に総理(訳注:周恩来)が「主席と会う際に一つだけ約束だ。握手をしてはいけない、主席は握手し過ぎて手が腫れ上がってしまっているからだ。

毛主席の第一印象は「少し老けたな、白髪も多いし。」神々しい感じはあるけど、想像していたのとちょっと違った。疲れてそうだった。天安門を降りたらある同級生は言った「主席に会えた!これでもう私心や雑念など起こさないぞ!」と。

・紅衛兵に謁見した毛沢東は「武力が必要だ!」と語った。これはヤバい!「武力」が出てくるまでは多少状況を抑えることができたが、この一言の後は抑えが全く効かなくなった。
(陳小魯氏のコメント。同氏は中国十大元帥の一人、陳毅元帥の息子。こういう方がインタビューに答えているのがすごい!)

・知識分子とみなされた父親は突然連れさられ、リンチに遭いやっと家に帰ってきた。父は強い男だったが涙を流していた。「かつては日本鬼子にやられ、今度はガキどもにやられてしまった。お父さんを信じてくれ、お父さんは反革命ではない、毛主席と共に闘ってきたんだ。」

その頃は「××書記の息子は親と縁を切った!」という大字報が誇らしげに出回り、その書記の妻は自殺。その他二人の書記も自殺した。そういう時代だったのだ。
大字報とは、壁新聞の意。当時の政治主張は主にこの大字報で語られ広がった)

・とにかく戦争に行って英雄になりたかった。ベトナムがアメリカと戦争をしていると聞き、ベトナムを助けようと親に隠れて広西まで行ったが、3回出国を試みて3度とも失敗した。一番ひどかったのは広西の民兵だ。やつらは北方人に敵意丸出しで、本気で殴ってきた。

(銃を盗もうとして捕まり、牢屋に入れられた後のエピソード)
本当に食べるものが無かった。隣に科学院の知識分子も捕まっていた。しょっちゅううめき声をあげているから「うるさくて寝れねえなあ」と思っていた。


病院に連れて行かれたが、反革命らしいと聞くと医者もろくに看てくれなかったらしい。数日後に死んだ。同じ部屋の囚人たちは喜んだものだ、なぜなら一人分の食事が浮いて、分け前が増えるからだ。

・当時は出身の悪い人たちは自らの名前を次々と「革命的」に改名した。○兵として忠誠を誓ったり、或いは集団で「×文革」と改名するものもあった。
(出身が悪い:親が資産家、富農、知識人であったものはそう呼ばれた)

当時、賈という名字の女性が「賈文革」と改名したが、「それでは「假文革」と同じだ!」と壁新聞で批判され、あわてて「真文革」に改名するなんていう笑い話もあったが、当時は真剣そのものだったのだ。
(賈と假は発音が同じ。後者は「にせもの」と言う意)


【考えたこと】


■「見えなくなった」文革

実は学部では政治学、特に地域研究として中国政治を学んでいた自分。その頃の方がむしろこの時代の事象の一つ一つには詳しかったかもしれません。実際に中国で働くようになると、かえって文化大革命に関する文物には触れなくなってしまい、今回の北京滞在でもあまり多くを感じることはありませんでした。

あえて文革を意識するのは、自分の仕事相手である研究所の所長が軒並み40台と若いのは何故かと聞くと、「うちらより上の世代は文革の世代だから……」と皆が一様に答える時くらいでしょうか(日本からのお客さんが必ず聞く定番の質問です)。

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*懐かしさを楽しむように(写真ダメだって言われているのに)舞台の写真を取る観光客らしき中国人(紅色経典餐庁での一コマ)。


■紅歌の中心であえて文革を叫ぶ


実はこの記事ですが、中国書局より出版予定の本の内容をあえて先取りしたもの。建党90周年を目前に控える紅歌ブームの中、文革発動45周年の5月に意図的にぶつけて出したとしか考えられません。この事実だけでもやる気がうかがえます。

都市部を中心とした中国で、これほどまでに政治に熱狂し、知識が否定され、暴力が横行した時代があったのです。今や文革時代を想像することすら難しい現在の北京とのギャップに、頭が混乱する思いです。地下鉄で雑誌を読みながら、「今後、北京が再びこうなることもありうるのか?」と不安に駆られ周りを見渡すと、イチャイチャしている九〇後(1990年代生まれ)のカップルが目に入り、「それはないか」と安堵しました……。

私が中国政府系の機関と仕事しているからかもしれませんが、今やいたるところで「紅歌」が唱われている北京。若い世代はそれほど政治を感じることなく、まあ結構素直に楽しんで歌っているようにも見えます。しかし、文革の記憶をまだ鮮明に残している50~60代が多い場所で聞く紅歌は、何だかとても強い違和感を感じます。

紅歌を支持している現在の政治リーダー、次世代の政治リーダーにせよ、文革時代の混乱を生で体験してきた世代です。それにもかかわらず、文革を思い起こさせる歌や文化を「使う」のはなぜでしょうか?「愛国主義を盛り上げられれば大丈夫」「現在のように情報が開示された時代であのような混乱は起きない」という絶対の自信があるのでしょうか。

上記写真でも紹介した「紅色餐庁」では文革期も含めた昔を楽しそうに懐かしむ中国人観光客も多かったですが、その影では「もう聞きたくない!」と思っている人も多くいるはず。政治利用される紅歌をどのように聞いているのでしょうか。改革開放、高度経済成長の中で忘れそうになる、これもまた「現代」中国の大きな風景です。

*当記事はブログ「北京で考えたこと」の許可を得て転載したものです。

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