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2011年09月04日
ロブサン・センゲ氏によるチベット国旗掲揚。
ロブサン・センゲ氏はスピーチの初めに、(以下チベット語版を基に訳す。英語版とは異なる部分もある)「亡命チベット人の民主主義の歩みのほとんど全ては、ダライ・ラマ法王の優れた導きに依るものだ」として、まずその始まりを法王の幼少時の経験に遡り語る。
法王は農民の家に生まれられた故に、ポタラ宮殿に住み始められてからも、近くで法王に仕える掃除人や門番等と親しくなり、彼らからチベットの庶民の暮らしぶりを知るようになられた。
1950年に政治的権限を受持された後、近代的政治体制を確立するために1952年、法王は『政治改革委員会』を設立された。しかし、中国の占領下に入り、志しを全うする事ができず、委員会も占領軍により解散させられた。さらに、1959年には亡命せざるを得なくなった。
しかし、法王は亡命されてすぐ52年に始まられた改革を継承し、民主主義への道を模索し始められた。折しも、1960年に入ると世界の多くの地域において、植民地からの解放運動が起こり、多くの民主主義的国家が誕生した。
チベット議会発足への第一歩は聖地ブッダガヤにおいて、亡命チベット人たちがダライ・ラマ法王指導の下、鉄の如きに一丸となることを誓ったことに始まる。1960年6月29日、法王はダルハウジーで道路工事に従事するチベット人たちを前に『民主主義に向かうビジョン』について語られた。
この時、チベット人たちは難民となったばかりであり、祖国を失い、家族のほとんどを失った上に、26歳の若きダライ・ラマ法王さえ道路工事の現場にお越し頂くような悲しい状況となったことを思い、多くの人々は涙を押し止めることができなかったという。
*法王の民主主義に関する著作を手にするセンゲ首相。
その後、1960年9月2日に人々により選挙された、というか選ばれた議員による議会が開かれることとなった。この日にちなみ、その後毎年、9月2日を『民主主義記念日」として祝うこととなったのだ。
その時には東はガントゥックから西はマナリまでの道路工事現場キャンプでそれぞれ集会を開き、挙手により代表を選んだのだ。議員たちはダラムサラに集まり、週末ごとにブリキ箱に書類を詰め、(ツクラカンに近い)木の下に集い話し合いを行ったのだ。
できるだけ早く、法王のチベット帰還を実現する。プーギェロー!