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ナーガルジュナ『法界讃』を用いてのダライ・ラマ法王仏教講義―チベットNOW

2011年10月03日

■ダライ・ラマ法王仏教講義・ナーガルジュナ「法界讃」■

昨日10月1日より、ダラムサラのツクラカンでは再びダライ・ラマ法王による仏教講義が始まっている。今回は台湾グループのリクエストによりナーガルジュナ(龍樹:AD150~250年辺り)作と伝えられる『法界讃』がテキストとして使われている。講義は午前、午後3日間行われ、最後の日の午前に観音菩薩の灌頂が行われる。

参加者は台湾グループが約900人、外人は台湾を含め57カ国から1250人、その他チベット人を含め5500人以上が登録したという。お陰でダラムサラは満杯状態。ルンタレストランも直子さんが「もう来るな」と言うほど繁盛している。

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台湾グループは今回楽団を用意し、法王のお出ましを歓迎。講義が始まる前には中国語で般若心経が唱えられた。法王はまず最初に聞く側と説く側の動機の大切さを説かれた。

「ここに集まっているみんな、3日半の間、動機を正してしっかり聞くんだよ。私も清い心で説明するつもりだ。このように正しい動機とともに法を説いたり、それに聞き入ったりすれば、自分たちの心に良き薫習を植え付けることができる。薫習という目に見えないものだけではなく、新しい考えと見方を得ることができれば、人生が良い方向に向くことは確かだ」と。

*当記事はブログ「チベットNOW@ルンタ」の許可を得て転載したものです。


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ついで、「台湾グループのリクエストにどのテキストを使おうかと思ったが、この『法界讃』は中国語に訳されたものが昔からあると聞いたのでこれに決めたのだ」とおっしゃった。が、ここで中国語通訳の方から「チベット語訳の方は101偈あるのですが、中国語訳の方は87偈しかなく。今新しいのを作ってるとこです」とコメントが入る。

法王「そうか、ま、そんなで漢訳とチベット語訳が異なるお経も多い訳だ」と。ちなみに日本語訳はこれまでなかったようだが、マリアさんが今回日本語試訳を作り日本人グループに配られた。英語訳もあり。

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■「仏教は創造神も認めず、実体的自我も認めない宗教」

1日目の前半にはいつものように他宗教との差を説明されながら仏教全般について解説された。「『チュ=法』という言葉はサンスクリットでは『ダルマ』だが、『ダルマ』の意味は保持するとか護るという意味だ。今は護るという意味だと解釈していいだろう。

苦しみを避け幸を得たいと思うことには理由を探す必要はない。苦しみと幸の原因と条件に思いをはせ、得たいと思う幸を益々増やしたい、望まぬ苦しみを次第に少なくしたいという目的と必要性を認識した上で、教えを正しく聞くことが大事だ」と話され、

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「21世紀に入り物質的発展は目覚ましいが、便利な物が有るだけで心が満たされることはない。心の苦しみは物で解消され得ない。心の苦しみを晴らすためには心に拠り所が必要だ。今、21世紀に入っても様々な宗教がこの心の苦しみを救うことに役立っている」とし、

その後様々な宗教を教義を持つもの、持たないもの、教義を持つものをさらに、創造神を認めるもの、認めないものに分類され、されに創造神を認めないものを実体的自我を認めるもの、認めないものに分類、仏教は創造神も認めず、実体的自我も認めない宗教であると説明された。

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■「タオイズムには創造神がいるのか?」

ここで、法王は創造神を認めない宗教としてインドのチャールヴァーカ(唯物論者)、ジャイナ教、仏教を上げられた後、「ところで中国のタオイズムには創造神がいるのか?」と台湾グループに問いかけられた。台湾グループ「さあ~~、いるんじゃないでしょうか???」と答える者数名。みんな確かでない様子だったので、法王は壇上にいた中国系の僧侶に質す。その僧侶はっきりと「いません」と答える。そこで、法王は「そうか、これで創造神を認めない宗教が4つになったわけだわい、ははは......」と。

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■「宗教は人の心に希望と幸を与えるもの」


続けて世界の宗教はこのように教義的には様々だが、すべて人の心に希望と幸を与えるものだ。人生において希望ということは非常に大事なことだ。希望が絶たれると、人は自殺したいとの考えを抱く。中には実際に自殺する者もいる。心が混乱するのだ。心にいくら苦しみが起ころうとも希望さえあれば生き抜く力となろう。人の心の拠り所となるのだ。

このような働きは全ての宗教にある。4千年ほど前に人の社会に宗教というものが起こり、社会が困難な状況に陥った時、そこから抜け出す手段が絶たれた時、神がいるとか至高者がいるとか信じることで希望を与えられるということがある。この状況は物質に恵まれた21世紀においても変わることのない事実だ。」と話された。

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■「空性」と「光明の心」

午後、テキストの講義に入られた。このテキストの注釈は少なく、ランドンという人とコランパ(はっきりしない)という人のがあると言われ、「法界」をランドンは「空性」とのみ解釈し、コランパは対象である「空性」とそれを観る主体である「光明の心(クリアーライト)」に分けて解釈していると説明された。

法王は以後、後者の説に従うかのように「法界」を対象である「空性」とそれを観る「光明の心」に分けて説かれた。また、著者とされるナーガルジュナは対象である「空性」は中観派のそれを基にし、主体側は如来蔵(仏性)理論から来る「光明の心」を基にしている。また、その「光明の心」を発揮するために密教があるとも説かれた。

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また、第二結集を中観派中心、第三結集を唯識派中心とするチベット仏教の説き方に従えば、このテキストは第三結集の考えに従ったものだとも言われた。テキストの内容は概ね、客塵煩悩が晴らされれば仏性が露になるといった趣旨の話が続く。

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*講義の前にも予習に余念がない台湾グループ。


以下最初の何偈かをマリア訳で紹介する:

1.(法界に)無知な者は、三界をめぐる
すべての有情の中に存在する法界に礼拝いたします。

2.輪廻の因となるものを、空によって浄化した清浄(な境地)が涅槃であり
法身もまたその境地である

3.ミルクが混在していると、バターというエッセンスは現れないように
煩悩の汚れが混在していると、法界を見ることはない

4.ミルクを精製すると、汚れのないバターというエッセンスになるように
煩悩の汚れを滅すると、汚れのない法界が現れる

5.灯明が水瓶の中にあると、闇を照らすことができないのと同じように
煩悩という水瓶の中にいると、法界を見ることはできない

6.どの方向からでも、水瓶に穴を開けると
その場所から光が流れでる

7.禅定の金剛によって水瓶が壊されると
虚空の隅々まで光が行き届く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

■余談:『法界讃』はナーガルジュナの作か?

ここから先は私の勝手な余談である。私ははっきり言ってこのテキストはナーガルジュナの作ではないと思う。理由は単純にナーガルジュナが唯識や如来蔵を説くとは思えないからだ。だって、ナーガルジュナの生きてた時代にはまだ唯識哲学は起こってなかったから。それと、文体的にナーガルジュナをまったく感じないから。

では、このナーガルジュナは所謂チベット仏教が信じる密教のナーガルジュナなのか?というとそうも思えなくて、何だか第三のナーガルジュナを想定しなきゃいけないような気がしている。

チベット仏教ではブッダシャカムニが弟子の心根に従い上座部も大乗も密教も同時に最初から説いたということになっている。だからこの人たちにとってはナーガルジュナが唯識を説こうと密教を説こうと大した問題にはならない。

だが、我々のように一応近代的歴史観に基づいた仏教史を知る者にとってはこのような歴史観無視の解釈は受け入れ難いということになる。

時には私など「僧侶に科学も教えるように」とおっしゃるなら、ついでに近代的「仏教史」も教える方がいい、などと思ったりもする。

もっとも、よく法王等もおっしゃるが、「西洋の仏教学者は作者の伝記ばかり詳しく調べるが、肝心なテキストの内容についての考察はあまりしない」というのも一面当たっているようにも思う。今回は、作者が誰であっても関係ない、「人を見ず、教えを見よ」という立場で聞くことにする。

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*20人程の日本人グループ。


そう言いながらも、今日は講義の後、前に座っておられた東大の吉村均先生に「このテキスト本当にナーガルジュナが書いたものだと思われますか?」と質問してみた。

すると、先生まず「実はこのテキストの漢訳を見たのですが、漢訳とチベット語訳の違いに驚きました。偈の数が大きく異なるというだけでなく、内容的にも相当違うのです。漢訳の中には明らかに唯識的と思われる語彙がたくさん出ていたのですが、これがチベット訳ではほとんど無くなってる。どういうことでしょうかね?」とのこと。

それでも、先生、私の執拗な突っ込みにも関わらず、「最近日本の仏教史観も相当変わって来ています。ナーガルジュナが唯識を説いたとしても、さらに密教を説いたとしてもおかしくないかもしれない」とおっしゃっておられました。

私は最後に「はあ、でも私はどうも理科系的考え(常識)が抜けませんで、ナーガルジュナが600年も生きたとは到底思えないんですよ、ははは」と今日はこれまでとして、また、明日にでもゆっくり続きを聞くことにして別れた。

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*法王のお出ましを待つ間に見つけた、柱に張り付いてた蝶。


*当記事はブログ「チベットNOW@ルンタ」の許可を得て転載したものです。


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