中国、新興国の「今」をお伝えする海外ニュース&コラム。
2011年10月17日
この点に関し、ブログ「政治学に関係するものらしきもの」の以下の記事がその骨子を丁寧にまとめているので、参照されたい。
権威主義体制の挑戦を受けた民主主義=フランシス・フクヤマが語る中国(2011年9月26日)
ただ、ここではフクヤマの論説について直接論じたいわけではない。同様な指摘はイアン・ブレマーの『自由市場の終焉―国家資本主義とどう闘うか』や、マーティン・ジャックスの『中国が世界を支配するとき』といった、近年英語圏で出版された書物でも異口同音に述べられているものだといってよい。
■中国がたどる「独自」の道=中国内外の研究者の奇妙な共鳴
重要なのは、このような議論の背景には、もともと中国国内においてその「独自の
発展モデル(「中国モデル」「北京コンセンサス」)を称揚する議論が政府に近い学者たちから提唱され、それが上記のような海外の有力な学者の言説と一種の
相乗効果をもってお互いを補完する、という構図がみられることだ。
そこでは、中国が西側先進国とは異質な「資本主義」の道を歩んでいるということが自明のこととされ、その上で中国は「異質」であるにもかかわらず(あるいはそれ故に)成功の道を歩んでいるという認識が(程度の差はあれ)共有されていると言ってよい。
もっとも、これはほんの少しまでは全く自明な認識などではなかった。本の4,5年前中国の台頭を語る言説というのは、例えばゲーム理論家のジョン・マクミランの著作(『市場を創る―バザールからネット取引まで (叢書“制度を考える”)』)などに典型的なように、むしろ「中国も先進欧米諸国と同じように自由な市場経済を重視した、だから成功したんだ」というようなむしろ素朴な近代化理論に近いような言説の方が優勢だったはずだ(ティム・ハーフォードの『まっとうな経済学』でも同様な議論がされていた)。
■戦前日本の中国「異質」論
だが、歴史を振り返るなら、中国の経済発展が普遍的なコースから外れた「異質なもの」であるか否か、熱心に議論されたのは決してこれが初めてのことではない。例えば、戦前の日本あるいは中国の研究界においても、このような中国社会の異質性をめぐる議論が盛んに交わされたことがあった。
その代表的なものとして、中国農村における「村落共同体」の性質を巡って行われた、いわゆる平野-戒能論争があげられる。ただ、それら当時の議論と現在との違いは、当時における主要な関心事は、「中国の台頭」ではなくあくまでも「中国の停滞」であり、そしてそのような中国の状況が、マルクス主義に基づく唯物史観の標準的なコースから外れていることと関係するのかどうか、という点であった。
後者の論点は、いわゆる「アジア的生産様式」というものが存在するのかどうか、ということをめぐる議論にほかならない。ここで強調したいのは、それが「停滞」を説明するものなのか、「台頭」を説明するものなののか、欧米社会に比べ「異質」とされるのが資本主義体制なのか社会主義への道なのか、という点を巡ってベクトルは正反対のようにみえるが、やはりかつての「中国異質論」と昨今の「中国異質論」には、多くの点で共通する点が認められる、という点である。
■「カウディナのくびき」を飛び越える中国独自の道
時々このブログでも紹介している、「孤高の」中国史家、福本勝清氏の長期連載「中国的なるものをめぐって」に、最近「カウディナのくびき」と題された論考が連続して発表されているが、これは上記のような二つの「中国異質論」を考える上で、大いに示唆に富むものだと言えるだろう。
カウディナのくびきその一(21世紀中国総研)
カウディナのくびきその二(21世紀中国総研)
カウディナのくびきその三(21世紀中国総研)