中国、新興国の「今」をお伝えする海外ニュース&コラム。
2011年10月21日
「よし、病室の窓の下に叫びに行こう!」
(Пойдем, покричим под окнами!)
「叫ぶ必要なんかないよ」
■最初の記憶も窓越しのお見舞い
私の生まれて初めての思い出というのも、2歳下の妹が誕生し父と私がお見舞いに行ったときのことです。ソ連のことだから当然面会禁止で、母は2階にあった病室の窓を開け、外にいる私たちとしゃべりました。
1985年に弟が生まれたときも、私たち家族は母と直接会うことができず、窓越しに会話をしました。11月の寒い日だったので、窓を開けられず身振り手振りでの会話となりました。
大学生の頃、私は妹が産まれた病院でアルバイトをしましたけれども、まだ状況は変わっておらず面会は一切禁止でした。入院しているお母さんたちに渡したい物があれば、受付に持っていって中身のチェックを受ける。柑橘類など授乳中ダメとされている食べ物が入ってないか、編み物が入ってないか(「毛」がダメらしい)などを確認した上で、従業員のおばちゃんたちはお見舞い客から受け取った差し入れを病室まで届けてくれました。
■母体の養生と赤ん坊の滅菌
病院をこのようにがんじがらめにする目的は、体が弱っているお母さんと免疫がまだ弱い赤ちゃんを外部の菌から守ることでした。今はもうちょっとオープンになったかもしれませんけれども、少なくとも私がアルバイトをしていた1993年まではこの考え方でした。
ちなみに、ロシアでは赤ちゃんが産まれて最初の一ヶ月ぐらい、その顔を家族以外に見せない習慣があります。今では必ずしも守られているわけではありませんけれども、この習慣の由来は他人との接触を極力減らすことで、赤ちゃんを感染から守ることだと思います。
■オープンすぎる日本、「軟禁」状態だったソ連
日本でのお見舞いの仕方がソ連とは違いすぎて、私は大きなカルチャーショックを受けることになりました。コートのまま病室まで直行!こんなんでいいの???
タチアナはその後子供を二人日本の病院で産みました。個人的な印象としては、日本の病院はオープンすぎると思いました。産後疲れているお母さんにとって家族以外のお見舞い客はかえって負担になっているのではないかと私は思いますけれども、「軟禁」に近いロシアの病院もちょっと行きすぎという気もします。
■ソ連の豪傑看護婦に「日本のお見舞い風景」を見せたら……
私と一緒に働いていたイルクーツクの病院スタッフ。体が大きくて、一見こわそうだけど本当はやさしいおばちゃんたち。ヒマなときにアルコールを水で薄め、先生に見られないように集中治療室でこっそり飲んでいたおばちゃんたち……今頃何をしているのかな?
彼女たちに日本の「お見舞い風景」を見せたらどういう反応をするのだろうと考えたことが何回かありますけれども、見舞客を病室から追い出している姿しか想像できませんでした(笑)。
*当記事はブログ「ロシア駐在日記」の許可を得て転載したものです。