■IT版深夜特急企画と中国在住という選択=海外在住フリーライターという生き方~山谷剛史(2)■
*当社所在地である船橋市の某有名タイ料理店にて取材・撮影。
■山谷少年はいかにして中国の奥地に住むようになったのか
年200本のコラムを量産する「中国在住のITライター・山谷剛史」の素顔に迫るインタビュー企画。今回はその第2回目となる。前回はその脅威の仕事量とワークスタイル、取材スタイルを聞いた。
今回は、なぜ山谷剛史が中国・雲南省に居を構えるフリーライターになったのか。その経緯と今の道を選択した理由を聞いた。
連載目次:海外在住フリーライターという生き方~山谷剛史
(1)連載コラム年間200本のライター術
(2)IT版深夜特急企画と中国在住という選択
(3)ダメ記事が増えた日本の中国報道に喝!
番外編:
読者を惑わすダメ記事が増えた=どこか「おかしい」日本の中国報道(山谷)
■出発点はテキストサイトだった
C:
今までのお話でかなりお仕事の中身が見えてきました。というわけで、そろそろどうして今の仕事を選んだのかという経歴のお話をお聞きしたいのですけれども。高校は都立北園高校。2ちゃんねる開設者の西村博之さんとクラスメートだったんですよね?
山谷:そうなんです。ニコ生の番組に出演した時、再会しましてね。他にもいろんな人がいる中、2人で「クラスメートのあいつ、何しているの?」とか昔話で盛り上がってしまいました(笑)。
C:
高校時代から将来は海外で働こうと思っていたんですか?
山谷:自己紹介にも書きましたが、東京電機大学に入学した後、いろいろ海外を見てやろうと飛び出したのが、そもそものきっかけなんですよね。情報系学科だったんで、卒業後はそのままSEにはなったんですけど、旅行好きなのは変わらなくて。会社員になっても海外旅行に行ってました。
転機となったのはブログ、というかテキストサイトです。まだブログが流行る前だったんでね。自分でサイトを作って、旅日記を発表していました。2001年のことですが、旅先で知り合った編集者がそのサイトを見て、「君の旅日記面白いね。今は上海が熱いから、一緒に取材に行こうよ」って誘ってくれたんです。
それで初めて業界に触れて、物書きって面白いなと思ったんです。まったくのド素人でしたけどね。例えば、「1000文字の記事よろしく。最後の半分でいいよ」と言われたんですが、原稿用紙に書いて最後の行の半分まで埋めればいいよという意味なんですね。でもその意味がわからなくて、半分だからと500文字しか書かなかったり。
C:
それはやばい(笑)。
■会社員を辞めてライターに
山谷:誘ってくれた編集者の友達にはさんざんだめ出しを受けました(笑)。ただ、これで物書きが面白いなと思ったんで、2年間努めた会社を辞めて業種転換することにしたんです。ただ頼みの友人編集者が「ぼくは知らないよ」とか行って、広東省深圳市に行っちゃいまして。今でも仲の良い友人なんですけど、その時は困ったなと途方にくれました。そんな時、たまたま、あるジャーナリストにお会いする機会に恵まれたんです。
「本当にやりたいの?」って念押しされましたけどね。やりたいという話をしたら、ネタ出しから相談にのってもらいました。それから、
ともかく最初の1本目に全力投球して、連載を確保しろとアドバイスされました。2本目からはちょっと息を抜いてもいいから、ともかく1本目が大事なんだと。
そうやってもがいているうちに、アスキーさんとかインプレスさんに書かせていただけるようになったんですよね。
C:
ちなみに記念すべき1本目の記事はどういうネタだったんですか?
山谷:えーっとね、確かアスキーに書いた「レッド・フラッグ・リナックス」の記事
(中国国産のリナックス・ディストリビューション)だったはず。今思えばそんなに面白い視点じゃなかったような気もするんだけど、それもジャーナリストの師匠の判断で決めました。ビジネスマン的にはこういうものが面白いんじゃないかということで。
C:
その記事を起点に書く場所を増やしていったわけですね。山谷:そうですね。
半年とか、1年に1回、日本に帰るんですが、その時に「アスキーに書いてます。インプレスに書いてます」というのを名刺にして、いろんな編集部に売り込みをかけました。「ここでも連載させてください」と営業して回るわけです。それでアイティメディアさん、マイコミジャーナルさん、CNET-Japanさんと連載の数を増やすことができました。
IT誌だけじゃなくて、営業しているうちに経済誌でも連載がいただけました。それで経済誌読者が食いつくIT系のネタをわかりやすい説明で書くというコンセプトで記事を書いていきましたね。
■IT版深夜特急を断念し中国在住ライターに
C:
なるほど。どの時点で中国に住むようになったんですか?
山谷:最初にアスキーでいただいた連載は、IT版深夜特急というか、アジアを横断しながら現地のIT事情をリポートするという内容でした。インプレスでも各国のIT事情を紹介する記事を書いていました。
記事を書きながらどこまでも西に行ってやろうと思っていたのですが、2002年にちょうどイラク戦争前夜で中東がきなくさくなっていたんです。それで企画を断念しました。
その後の選択肢としては、インドのバンガロールでSEをするか、ライターを続けるかという2つの道があったんです。バンガロールまで行ってみたんですが、やっぱりちょっと違うなと思ってSEはやめました。
そうなると、ライターの道しかないわけですが、問題はアジアのどこに拠点を置くかですよね。最初に考えたのはタイでしたが、タイにはもうたくさん日本人ライターさんがいらしたんです。タイの伊勢丹とかに行くと、現地ライターさんの本がずらりと並んでいるわけですよ。もう枠なんかないですよね。新鮮味もないし。
だったら中国に行こうと思いました。当時はバックパッカーブームだったんで、ベトナム、ラオス、タイへのアクセスがいい昆明がいいだろうと思ったんです。まだ連載2~3本しかない身としては、ライター以外の仕事もある、すごくおいしい場所だったんですね。
雲南省に住み始めた時点では中国にはまったく興味がありませんでしたし、注目もしていませんでした。ところが時代の方が変わっていき、中国の関心が高まるにつれ、中国のことばかり書くようになったんですね。中国に住んではや9年、中国屋さんと認識されるようになってしまいました。ただ今までお話ししたとおり、本当は中国ライターじゃなくて海外ライターなんです。
(続)
以下、最終回「
ダメ記事が増えた日本の中国報道に喝!」に続きます。(2011年11月15日、20時30分更新予定)
連載目次:海外在住フリーライターという生き方~山谷剛史
(1)連載コラム年間200本のライター術
(2)IT版深夜特急企画と中国在住という選択
(3)ダメ記事が増えた日本の中国報道に喝!
番外編:
読者を惑わすダメ記事が増えた=どこか「おかしい」日本の中国報道(山谷)
【山谷 剛史】
1976年東京都生まれ、池袋育ちの海外専門ITライター。区立千川中学校、都立北園高校、駿台予備学校、東京電機大学を経て、独立系ソフトウェア会社に就職後、現在の職に転職。主に中国内陸に滞在する。OSはDOSから触り、大学の学科は理工学部情報系学科、サラリーマン時代はSEのバックグラウンドあり。
海外で住み、海外の人の気持ちを理解しつつ、あくまでも日本人の読者の視点で現地の背景を解説する記事を執筆する。特に対中国人に関しては、中国人の気持ちを日本人視点でヨイショせず解説できるということで、様々なメディアで書かせてもらったり、講演させてもらったりしている。海外の情報を海外に出たがらない日本人に伝えることを使命と感じ、いまだあまり取材されていないエリア、業界など隙間的な事象を取り上げるのを好む。
中国のほか、インド、東南アジア、中央アジア、韓国、北欧の主にIT関連の記事の執筆経験有。また、現在中国以外を勉強すべく、インドや東南アジアなどについて主に執筆するブログ「チャイナプラスワンIT事情」を執筆・勉強中。「海外ITライター、山谷剛史のページ」。
ツイッター:@YamayaT
*2008年にソフトバンク新書より発売された著書「新しい中国人 ネットで団結する若者たち」。