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趙紫陽再評価の兆し=政治改革派の動きでまたまた面白くなってきた中国政局(水彩画)

2011年11月21日

■趙紫陽再評価の兆しに政治改革再燃■

*当記事はブログ「中国という隣人」の許可を得て転載したものです。


20111120_趙紫陽
*2005年、南京で死去した趙紫陽。


■胡耀邦の名誉回復

1987年に学生運動の責任を長老に問われ、詰め腹を切らされた胡耀邦の名誉回復がここ数年で進んでいます。
(胡耀邦:1915~1989。第3代中国共産党中央委員会主席、初代中国共産党中央委員会総書記。1983年11月に訪日、中曽根康弘首相と首脳会談。友好関係を築く。この時の日中首脳会談で『日中友好二十一世紀委員会』の設立に合意し、また日中友好四原則を確立させ、以降、日中間の相互理解を深めるための青年交流事業を行った。wikipediaより)

2003年に胡啓立が『我が心の中の耀邦』という論文を発表(Wikipedia)。また胡耀邦失脚当時、中央弁公庁副主任として仕えた経歴を持ち、今現在は孤独に政治改革を訴え続ける温家宝も、回顧録で賞賛しています。再評価の機は熟したように思います。
(関連記事:「温家宝の孤独な戦い=政治改革論争の1年を振り返る―中国コラム」2011年5月28日)


■歴史から抹消されたままの趙紫陽

一方、同じ政治改革派であり、80年代には胡耀邦と並んで鄧小平を支えながら、1989年の六四天安門事件で断罪された趙紫陽に関しては別です。
(趙紫陽:1919~2005。「第2世代」の政治指導者として国務院総理(首相)、中国共産党中央委員会総書記などを歴任。1989年の天安門事件で失脚し、2005年に亡くなるまで軟禁生活を余儀なくされた。wikipediaより)

2005年に趙紫陽が逝去した際、中国共産党中央は、「党中央と国家の重要な指導的職務を担い、党と人民の事業に有益な貢献をした」と功績を認めつつも、「1989年の春、夏の政治的風波で、趙紫陽同志は重大な誤りを犯した」と、天安門事件での「誤り」を併記することも忘れませんでした。

再評価については「80年代末の風波については既に結論は出ている」(姜瑜・外交部報道官)というものが公式見解ですし、80年代を回顧する場合にも、基本的に趙紫陽はスルーされます。この点については、現在もしぶとく生き残る江沢民の意向もあるのでしょう。


■趙紫陽再評価を匂わす記事


ところが先日、南方都市報から、趙紫陽再評価のきっかけとなりそうな記事が出てきたのです。

永遠に懐かしむ 任仲夷画集「歳月の痕跡」出版前夜(南方都市報、2011年11月15日)

任仲夷は中国共産党の大物政治家。2005年に死去しています。1980年には鄧小平の命を受け、広東省で改革開放の前線指揮をとりました。

その任仲夷の画集がこのたび発売の運びとなり、広東省佛山市順徳区紀律委書記・潘東生が南方都市報に寄稿したのが上記リンクの記事です。潘東生はかつて任仲夷の最後の秘書を7年間務めた人物なのだそうです。なるほど、新刊に寄せた追悼文の転載なのですね。

内容は任仲夷を賞賛するものなのですが、その中で人々が今の広東があるのは任仲夷のおかげだと褒め称えるのに対し、任は「違う。広東が今あるのは(鄧)小平のおかげであり、(胡)耀邦、(趙)紫陽の功績も無視出来ない」と反論したことが紹介されています。

趙紫陽の80年代の功績については公式に否定はされていませんから、一発アウトにはならないでしょうが、任の発言を借りた体裁とはいえ趙紫陽の名前を出すというのはなかなか勇気がいるものです。逝去した2005年から見ても、趙紫陽を評価する文章がメディアで発表されたのは恐らく初めてのはずです。


■「中国は惜しくも寵児を失った」


文章は、「神州痛失驕子,嶺表永懷至人」という対聯も引用しています。任より先に広東省トップを勤めた呉南生が任に送ったこの対聯の意味は、「中国は惜しくも寵児を失った」という意味になるのですが、これもやはり呉の言葉を借りて趙紫陽を追悼しているとも読めるのです

極めつけはトップの写真です。1980年、鄧小平によって送り込まれた任が、前任者の習仲勲と握手を交わしています。彼も鄧小平に近い改革派でしたが、来年、党総書記に就任当確である習近平のご尊父でもあります。


20111120_鄧小平_習仲勲_中国
南方都市報の報道。右:習近平の父、習仲勲。


習仲勲も文化大革命前から失脚するなど苦難を味わった人です。文革の残滓である薄熙来を賞賛する、習近平を牽制する意味合いがあるのではないでしょうか。いかに任の元秘書とは言え、順徳区の紀律委書記あたりが単独でこんな意味深な追悼文を南方都市報で披露することなど不可能です。

80年代に任や胡耀邦、趙紫陽らと苦楽を共にしながらも、江沢民時代に入ってすっかり上海市に改革の先鋒の座を奪われ、ついでに改革開放の功績もかっさわれてホゾを噛んでいる広東省のお歴々や、長老たちがバックアップしているのでしょう。


■経済学者の現政権批判

呉敬璉「来年の指導部交代は中国経済に積極的作用をもたらす」(第一経済日報、2011年11月14日)

上記記事の掲載に先立ち、中国の大物経済学者の呉敬璉が、「来年の党大会でトップが交代するのは経済分野にとっていいことだ」と主張。習近平政権への期待を滲ませるふりをして、改革を推進しない原稿政権を批判する動きもありました。

・関連リンク
「呉敬璉が胡錦濤政権を批判」佐々木智弘の今度は北京で「中国新政治を読む、2011年11月15日
「中国モデルとは?<岡本中国経済論31>」岡本信広の教育研究ブログ、2011年11月12日

呉敬璉は政府による市場への干渉に批判的な「改革派」です。南方週末記事と合わせ、政治改革派がまたまた活発化してきたと見ることができるでしょう。

果たして、保守派や既得権益層からの反論はあるのでしょうか?両者入り乱れて、口角泡を飛ばす事態となれば面白いのですが。また、政治改革がキャッチコピーの温家宝ですが、呉敬璉にばっさり切られてコケにされてしまいました。今後はどの面下げて「改革」とか口にするのか、こちらも見物です。

*当記事はブログ「
中国という隣人」の許可を得て転載したものです。


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