加藤嘉一さんのコラム「マイクロブログは民主を推進できるのか?」(
フィナンシャルタイムズ中国語版)を題材に「中国マイクロブログと民主化」を考える記事の後編をお送りする。
前編はこちら。
■マイクロブログの影響力
日米欧では「ネット世論がバーチャル」とみなされる一方、中国ネット民は「ネット世論こそリアル」と見なしている現状があると紹介した上で、加藤さんはマイクロブログが中国の民主にどのような影響を与えるかについて論を進めている。
◆マイクロブログが変える「発言」権力の天秤
・長期的に見れば、マイクロブログは中国の民主を推進させる力になるだろう。
・現状でも高速鉄道追突事故や強制土地収用などの事件について、政府は(ネットに対して)弱者となっている。
・政府はネットでも主導権を握ろうとしているが、ネット民の想像力と知恵は政府に健康的な圧力をかけている。
・その圧力こそ、公共発言システムにおいて政府が巨大すぎる権力をにぎっている現状を改革する原動力なるだろう。
まずはマイクロブログが生み出すネット世論が強力な影響力を持っていることを認め、政府に対する圧力になっていると評価。
*加藤嘉一氏の中国マイクロブログ・新浪微博のアカウント。さすが「中国で最も有名な日本人」、95万人以上のフォロワー数を誇る。ちなみに蒼井そらさんのフォロワー数は830万人以上。
■中国に民主は早すぎる
◆マイクロブログの行きすぎた影響力
・でもね、民主は段階を踏まなきゃいけないものなのだ。明らかに。
・世論が噴出すればそれでOKではない。
・マイクロブログが統治者と被統治者のゲームルール、コミュニケーションを変えるのは望ましいこと。
・でも今のマイクロブログの影響力って行き過ぎじゃないか?
◆民主化には段階が必要、まずは法治から
・私の知るかぎり、民主の発展には、まず「独立した司法体系」、その後に「メディアと言論の自由及びメディアによる公権力の監視」、そして最後にやっと「選挙」という段階にいたる。
・マイクロブログを代表としたネット世論は今、ある意味で公権力に対する監視機能を持っているし、政府も「権力にとって脅威となる可能性がある」と考えている。
・だから、マイクロブログと政府の衝突が結果として「法治」につながるかどうかが一番大事なこと。
・法治の進歩を伴わない世論の膨張なんて、民主の発展にとってまったく建設的な意味を持たないということ。逆に破壊的な効果しかない。
というわけで、結論ではマイクロブログの危険性を指摘。加藤さんの持論である「まずは法治、その後言論の自由。民主主義はその後だ」との主張を展開している。
「段階を踏んだ改革」「経済改革から最終的には政治改革へ」という話は、中国共産党も認めている話である。中国政府寄りととられかねない話をさらりと書いてしまうあたりが、一部中国ツイ民から「外国人5毛」(外国人の中国政府工作員)と言われるゆえんなのだろう。
とはいえ、中国人、外国人を問わず、「中国に民主化は早すぎるんじゃない?」「民主化したら大変なことになっちゃうのでは」と考える人は少なくないのではないか。その意味では、中国でビジネスをしている日本人の多くは、「外国人5毛」かもしれない。
■独裁だろうが人権侵害だろうが、民を食わせることこそ正義
「アラブの春」後のエジプトを見てもしかり、民主化が混乱を生むことも十分に考えられる。改革開放から30年、問題を抱えつつも経済成長を成し遂げてきたのに、成長路線をみすみす失うことはないのではないかという主張も説得力のある論理ではある。
2009年2月、習近平副主席は「中国は革命も輸出せず、飢餓や貧困も輸出せず、外国に悪さもしない。これ以上いいことがあるか」と発言し物議を醸したが、「確かにその通り」と納得した人も少なくないはずだ。加藤さんの「急進的な民主は危険だ」論は、習近平の「経済成長して民を食わせることが大事。人権とかおためごかしで批判する金持ち先進国は氏ね」論と表裏の関係にあるのではないだろうか。
例えば、加藤さんは今年6月のフィナンシャルタイムズ中国語版のコラム「
中国高速鉄道の未来」で次のように書いている。
より重要なことは、中国の社会変革が政府の土地取得コストを上昇させている点だ。日本のように土地収用ができなくなる前に、急いで高速鉄道を建設するのが賢明な選択肢だろう。
一般市民から安値で強引に強制土地収用ができなくなる時代がやがて来るのだから、その前に高速鉄道をつくるべきという提言なのだが、左翼魂を失って久しい私ですら「えっ、土地を奪われる人のこと考えないの?!」と驚かされる一文だった。
加藤さんのきわめて国家主義的な視点を知る者からすると、「急進的な民主化は危険だ」論は「とりあえず今は我慢しておけ」という意味にとれてしまう。そこで問題となるのは、じゃ、改革はいつ始まるのかという点だろう。
■民主化発展段階論は本当か?
「私の知るかぎり、民主の発展には、まず「独立した司法体系」、その後に「メディアと言論の自由及びメディアによる公権力の監視」、そして最後にやっと「選挙」という段階にいたる」という民主化発展段階論はどこの国をイメージしたものなのか、私にはよくわからないが、果たしてそんなことがありうるのだろうか。
あるいは高邁な思想を持った指導者が「今のままじゃ愚民に民主主義は無理だ」と考え、こうしたレールをしくということはありうるのかもしれない。だが、今の中国共産党にその「高邁な思想」があるかどうかは別にしても、これだけの豪腕を持った指導者は存在しないのではないか。
独裁中国で権力と富を得た既得権益集団はそうそう簡単に金のなる木を手放そうとしないだろう。彼らを説き伏せ、改革を推進するには豪腕政治家が必要だが、習近平は「以前よりも選出にあたっての党内調整が洗練されている。その末に誕生したトップゆえに、かつての指導者ほど
の強権は持ち得ないだろう」とも指摘されている。
習近平以降も現状の「安定した独裁」が続くかぎり、豪腕政治家が誕生することは難しい。たとえ「高邁な思想」を持っていたとしても、膨大な既得権益集団の妨害を振り払うことは困難なのだ。
あるいは海外の強烈な圧力の下、しぶしぶ民主化を決断した国が順序立てて改革を進めることはあるかもしれないが、外圧に屈するには中国は大きくなりすぎた。
■民主化しないと法治も言論の自由もない
「経済改革から政治改革へ」という鄧小平テーゼ自体が否定されてはいないものの、一向に政治改革が実現する気配はない。「いつの日にか実現する共産主義に向けての移行期が今なのです」というお題目と同じぐらい疑わしい話となっている。
マイクロブログが生み出したネット世論が政府に対する圧力となり、まずは「法治」という譲歩を引き出せれば一番いいというのが加藤さんの見立てだが、これにも疑問符がつく。司法も言論も権力に服する体制こそ独裁のキモだからだ。
むしろ順序は逆で、政権を交代させるという権力を市民が握って初めて、法治と言論の自由が保障される可能性が生じるのではないか。
前編では中国マイクロブログのいわゆる「政治的言説」が政権を根本から否定するような「民主」志向のものではなく、既存体制内での「維権」(合法的権利を守る)ことを志向していると指摘した。そこにあるのは政府への期待であり、政府が温情的・水戸黄門的に社会正義を実現することを期待する発想だ。
マイクロブログの盛り上がりが政府への圧力となっていることは間違いないが、その先にあるものが法治だったとしても、それは西洋近代的な法治とは違ったもののように思われる。
<前編>
マイクロブログと中国の民主化=加藤嘉一コラムを題材にして(前編)―中国(2011年11月25日)