中国、新興国の「今」をお伝えする海外ニュース&コラム。
2011年11月25日
*梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか』。書影クリックでamazonページへ。
■「食わせれば正義論」を批判できるのか?
2009年2月、習近平副主席はメキシコ訪問中、海外からの人権批判に不快感を示し、「中国は革命も輸出せず、飢餓や貧困も輸出せず、外国に悪さもしない。これ以上いいことがあるか」と発言して物議を醸した。失言扱いと評価されたが、「まだ貧しい人もいるけど、中国が豊かになっているのは確か」と納得した人も少なくないのではないか。
さて、習近平失言に象徴される「食わせれば正義論」に対して、どのような批判が可能だろうか。この問題については、梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』
の「第8章:これからの「人権」の話をしよう」が大変示唆的な議論を展開しているが、その中でも特に「食わせれば正義論」と関連が深いアマルティア・センの議論を下敷きにして論じている部分を紹介したい。
■「先進国・自由権VS新興国・社会権」という図式
劉暁波のノーベル平和賞受賞を話の枕として、欧米諸国が信教・表現・結社の自由といった「自由権」を重視する立場から、それが確保されていない新興国の状況を批判するのに対し、新興国の側が、「いや、まずは社会権・生存権の充実が必要だ」と反論する、という構図が繰り返されてきた問題を取り上げている。
まさにこの反論こそ中国政府お得意のもので、「多くの人を飢えと貧困から救った中国の経済成長こそが人権=社会権を改善した」という主張、すなわち習近平の「食わせれば正義論」は、中国共産党によって幾度となく繰り返されたものであり、失言でもなんでもないことがわかる。ちなみに酒を飲んでいたせいか、習近平はべらんめぇ口調になっていたのだが、それがなければ何の問題にもならなかったかもしれない。
さて、この膠着状態の「先進国・自由権VS新興国・社会権」という図式を崩す方法はないだろうか?という話で登場するのがアマルティア・センだ。センは自由権と社会権が対立するという発想を否定する。飢餓・飢饉という社会権の問題が、政府の不適切な介入、社会補償制度の欠如、紛争などの社会不安、民主主義的な政治制度や自由な報道の欠如という自由権の問題によって引き起こされる可能性を指摘し、自由権と社会権は対立するものではなく、社会権の存立のためには自由権が不可欠なものであり、表裏一体だと説く。
■東アジア「公共圏」の必要性
センの理論を引きつつも、介入、とりわけ武力介入は気の重くなる結果を引き起こすことは間違いないと同書はあくまで慎重な姿勢を貫いている。なるほど、センの意見は説得力に富むものだが、飢饉・飢餓という社会全体の生存権が脅かされている状況と、現在の中国のように全般的な生活水準は向上している状況を同一視して語る難しさはあるように思う。
この点を踏まえて、梶谷は先進国が振りかざす理念ではなく、関係国同士が合意できるような国際的「公共圏」を新たにつくることが重要ではないかと提言する。2010年の尖閣諸島沖中国漁船衝突事故後には、中国駐在の日本人社員が拘束されるという報復行為があった。これは「中国における法治の欠如」という自由権の問題である。すなわち、「そうした行為は許されない」という合意を共有する「公共圏」が、日中間には存在しないことに起因するのだ、と梶谷は喝破している。
■中国の一員としての外国人、外資系企業
梶谷の大変示唆的な議論については、私の不十分な理解ではなく、『「壁と卵」の現代中国論』で堪能していただきたいが、個人的にはもっと下世話な「実利」の視点から、外国人による「食わせれば正義論」批判ができるのではないかと考えている。
強力な政治力を発揮して13億人を食わせ、日本企業に市場と労働力を供給している独裁。それは一方で日本企業が交わした契約を不当に破棄させることを許し、市場ルールをねじ曲げ、経済的損失を与える存在でもある。その好例とも言えるのが、上海市のミスタードーナツ打ち壊し事件だろう。もっと稼げる店子を入れようと、契約が残っているにもかかわらず、大家側が店舗破壊という強引な手法で追い出しを図った事件だ。
(関連記事:上海のミスタードーナツ店、破壊=「長期契約で家賃節約」の工夫があだに―上海市)
あるいは中国のネット検閲問題。当初、自由権の侵害として米国の「人権外交」の文脈から批判されてきたが、最近になって異なる批判の文脈が生じている。すなわちネット検閲は貿易障壁であり、米企業の経済的利益を損ねている、と。アリババやテンセントなどの中国IT企業が米国進出の動きを加速する中、これは当然の批判だろう。
グローバリゼーションの進展によって、外資系企業もまた中国の一員として、社会権(とそれを担保する自由権)を訴える主体の一つとなりうるのではないか。「ワシントン・コンセンサス」的な欧米的価値観の押しつけではなく、当該社会の一員として主張する道があるのではないかと考えている。
■民主の御利益
もう一点、梶谷の整理から示唆された論点として、「民主の御利益」という問題についても触れておきたい。センが説く自由権と社会権は表裏一体のものという論とも関連するものだが、中国の大物経済学者・呉敬璉によれば、「自由権の侵害」のおかげで反映しているように見える中国は、実際には「もっとひどい侵害から緩和されたこと」が成長の要因であり、現状の「侵害」もまた経済にとってはマイナス要因だと指摘している。
国内の中国モデルを賞賛する人たちは中国の権威主義的体制と強大な国有経済があったために国家利益に沿った戦略が展開できた,力を集中して大事をなす(集中力量辯大事)ことができたと主張します。しかし呉はこれに異論を唱えます。もしそうなら計画経済時代に高度経済成長が可能だったのではないか,実際に計画経済がもたらしたのは多くの人の犠牲であったことを考えると,高度経済成長は民間の活力と国際市場とのつながりではないか,と主張しています。
「中国モデルとは?」(岡本信広の教育研究ブログ、2011年11月12日)の「 (4)呉敬璉による「中国モデル」の議論」を参照)
実際には食えない人が沢山いて、その人たちの意見が独裁で封殺されている可能性は検証されていません。
この検証なくして「食わせている」という主張は、「GDP増えたら国民に何してもいいじゃん」という主張と等価です。
賛同する人は少ないんじゃないでしょうか。