■ブックレビュー:梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論 リスク社会化する超大国とどう向き合うか』人文書院、2011年■

*梶谷懐著『「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか』。書影クリックでamazonページへ。
■テーマ選びの秀逸さに驚嘆
「すごい本が出た」というのが率直な感想だ。現代中国を知るためにも、日本人として中国とどう向き合うかを知るためにも必読の一冊と言えるのではないか。
何がそんなにすごいのか。
本書を貫くテーマ(後述)も確かに面白いのだが、中国屋としての自分の目から見れば、最大の魅力はテーマ選びのセンスが傑出していることにある。全11章から構成されているが、そのすべてが急所を押さえたものばかり。しかも一つ一つの解説がきわめて深いのである。
これ一冊で現代中国の重要テーマがすべて分かる、と言うとさすがに誇大広告となるが、中国語ニュース翻訳の仕事をしている自分の経験に照らすと、新聞のトップを飾る重要トピックの半数程度については深い知識を得られるのではないか。いや、偉そうなことを言っているが、私も「蒙を啓かれ」っぱなしの一冊であった。
そのテーマすべてを紹介することもできないので、目次をご紹介するということでご容赦いただきたい。
■目次
第1章 自己実現的な制度と私たちの生活
「壁と卵」の視点から現代中国をみる/システムとしての「制度」/現代中国社会と歴史的制度/自己実現的な制度と中国産食品の安全性
第2章 グローバルな正義と低賃金労働
農民工の自殺問題と相次ぐストライキ/「搾取工場」へのボイコットは正当化されるか/「離脱・発言・忠誠」とボイコット運動/労働CSRをめぐる問題/新世代の農民工にみる労働者の意識変革
第3章 赤い国のプレカリアート
都市の労働力不足と「ルイスの転換点」/労働者の待遇改善と農村問題/マオの時代のプレカリアート=臨時工/文革と臨時工問題
第4章 中国とEUはどこが違うのか?―不動産バブルの政治経済学
不動産価格の高騰と蟻族の不満/社会主義体制下の土地公有制/単一の金融政策と独自の財政政策/「融資プラットフォーム」と地方政府の債務拡大/崩壊しそうでしない「バブル」
第5章 米中の衝突は避けられないのか?―中国の台頭と人民元問題
「ワシントンコンセンサス」から「北京コンセンサス」へ?/TPPをめぐる論争/グローバル・インバランスと人民元問題/米国の金融政策に追随する中国/「だまし絵」のような米中関係
第6章 歴史に学ぶ中国経済の論理
乖離する国家と社会/硬直的な財政と予算外資金/中国の近代化と貨幣流通/大恐慌から幣制改革へ/国家をすりぬける「民間」
第7章 分裂する「民主」と「ビジネス」
遅れてきた開発体制国家/天安門事件と趙紫陽/計画経済体制下のリベラリストたち/ラビア・カーディルと「市場の倫理」の挫折/「統治の論理」を超えて
第8章 これからの「人権」の話をしよう
2010年ノーベル平和賞の衝撃/自由権と社会権をめぐって/「社会問題」の解決と暴力/東アジアにおける専制と公共圏
第9章 日本人の中国観を問い直す―戦前・戦後・現在
戦後の日中関係を振り返る/右翼と左翼、そしてネオリベラリズム/「支那統一化論争」と尾崎秀実/現代日本人の中国観―三類型による理解
第10章 <中国人>の境界―民族問題を考える
民族間衝突をめぐって/<中国人>の境界/社会主義と民族自決の理念/戦後日本の左翼運動と民族主義/「告発の政治」を超えて
第11章 村上春樹から現代中国を考える
「こちら側」の論理と「あちら側」の論理/重層化するシステムと中国社会/「例外状況」に生きる人々―檻の中のウイグル人/村上春樹と竹内好―近代化する社会との葛藤/村上作品における<アジア>へのまなざし
あとがきに代えて―リスク社会化する中国とどう向き合うか
欲を言えば、サブタイトルの「リスク社会化」ともっとも直接的関係性が深い環境問題や、「公共圏」の議論とつながりのある(そして個人的に今、一番関心が深い)中国の社会対話の変化(
民衆の暴力、
ネットを通じた注目の調達)といった問題について、筆者がどのように論じるのか読んでみたかったとも思うのだが、それはないものねだりというものだろう。
■多様な側面を持つ中国を、多様な視点で読み解く
著者の梶谷懐氏は現代中国経済論を専門とする経済学者だが、この本はその専門の範囲を超えたトピックにも果敢に取り組んでいる。「中国のような変化が激しく、また多様な側面を持っている国をフォローするのに、限られた専門からアプローチするだけではどうしても不十分な点が残るのではないか、という自分なりの「真面目な」モチーフもあった」と後書きで述べているが、まさしく多様な視点からの切り口を融合させることに成功している。
その視点の中でも大きなウェイトを占めているのが、歴史への視点であろう。例えば、中国に対する米国の「人権外交」は新自由主義に舵を取って以降の産物であり、むしろそれ以前は開発独裁をしくアジア諸国の人権侵害を見逃す態度だったと指摘している(第7章)。また、改革開放後の過剰な市場経済化の産物のように見られている「臨時工」(非正規労働者)についても、文化大革命以前の経済調整期に起源があったことを指摘している(第3章)。
歴史を含めた多様な視点を支えているのは著者の博識である。「ちょっと難しい」という感想を目にしたこともあるが、一般書としてはちょっと多めの参考文献がその一因となっている。だが、簡潔に論をまとめて紹介してくれているので、ブックガイドとしても読むという読み方もできそうだ。少なくとも私は読みながらアマゾンをポチポチしてしまったことを告白しておく。
■単純さを拒むがゆえの読みづらさ
もう一つ、「読みづらさ」に理由があるとするならば、それは本書がある問題について「単純な」理解を拒んでいる点にあるのではないか。
例えば、第2章の「グローバルな正義と低賃金労働」では米国で見たアンチ・スウェットショップ(搾取工場、低賃金かつ劣悪な環境で女性や子どもを長時間働かせていると批判されている)運動を冒頭で取り上げた上で、先進国基準から見れば劣悪な「搾取工場」での労働が途上国の女性や子どもたちを救っていたとの研究を紹介し、批判している。
では「グローバルな正義」を押しつけるのではなく、現状を理解し事情を理解すればそれでいいのかというと、そうではない。今度は搾取工場での研修に参加した日本人大学生を取り上げ、現場を共有したという感覚から「厳しい条件でも希望を失わず労働に従事する女工たちへの共感」を無批判に語る感覚に疑問を呈する。
「第5章 米中の衝突は避けられないのか?―中国の台頭と人民元問題」では、アジア通貨危機という苦い経験を味わった中国をはじめとする新興国が、ホットマネーの受け入れに消極的になるという対策を講じたことが、その後のグローバル・インバランス(米国の貿易赤字と新興国の経常収支黒字)という状況を生み出してしまう構図を描いている。
右か左かという二項対立の図式があればそのどちらかに寄るのではないということ。問題と対策というプロセスは必ずや次の問題へとつながっていくということ。安易な結論を拒否するという点で著者の態度は徹底している。
■必要なのは問題の切り分けだ
本書は人文書院ウェブサイトで連載されていた記事を加筆、構成したもので、各章はそれぞれ独立したものとしても読むことができる。だが、それに加えて本全体を通底するテーマ、それはもちろん「壁と卵」という村上春樹のスピーチからとった書名に通じるものなのだが、も用意されている。力不足を承知でそのテーマについても取り上げてみたい。
本家・村上春樹からしてそうなのだが、「壁」という言葉が含意するものはきわめて多様な意味合いを持つ。国家、社会、人々の期待、慣習などなど。そこで引っかかる前にまず、本書が何を問題としてイメージしているかを考えたい。
それは条件の異なる他者同士の接触、具体的には日本と中国、国際社会と中国、あるいは先進国と新興国という接触はどのような作法でやるべきか、条件の異なる他者に何を主張することができるのか、という問題だ。
上述したアンチ・スウェットショップ運動の「グローバルな正義」と現場を体験した日本人学生という対立からしてそうだ。あるいは本サイトの記事「
習近平「食わせれば正義論」をどのように批判するべきか?『「壁と卵」の現代中国論』を手がかりとして」で取り上げた、「人権を侵害しているけれども、実際に貧困を減らして総体としては国民生活を向上させている中国共産党独裁をいかに批判できるのか」という問題でも同じ視点が貫かれている。
著者はそこで「グローバルな正義」か、それとも現状追認かという二項対立を拒否する。どう拒否するのか。著者の提案は「問題の切り分け」だ。それが先進国で行われたならば明らかな抑圧でしかない過酷な低賃金労働もそれが中国の人々にとっては生活向上をもたらす手段であるのならば許容する。
だが、それは無批判な許容ではない。人権活動家の拘束であったり、あるいは尖閣諸島沖中国漁船衝突事故後の政治的報復手段としてのレアアース禁輸措置という国際経済ルールの侵害であったりという譲れない一線については発言し抗議していく。そうした問題の切り分けが必要なのだ、と。

*2011年9月刊行、梶谷懐著『現代中国の財政金融システム』。書影クリックでamazonページへ。
■「壁と卵」の含意
では何が許容しうる話で、何が許容し得ない問題なのか。それは誰かが勝手に決めるのではなく、対話を通じて話し合われるべきだと筆者は説く。ゆえに対話(すなわち、コミュニケーションを通じて他者と自分を変えていくこと)を試みない独善を強く批判している。
*追記:誤記修正。「第9章 日本人の中国観を問い直す―戦前・戦後・現在」で取り上げられているのは実態を見ないでおのれの欲望を中国に投影する日本人であり、あるいは異例にも中国について深い理解を持ちながら、それゆえに対話する他者という線引きを乗り越えて入れ込む尾崎秀美の事例だった。あるいは「第10章 <中国人>の境界―民族問題を考える」では、ウイグル族の暴動を取り上げて、中国政府の検閲を乗り越えて伝わってくる声に耳を傾けず自説に固執する人々を痛切に批判する。
対話が必要だが、そのためには相手の声に耳を傾け説得しあえる場が必要となる。その場=「公共圏」こそが、今の日本と中国には必要なのだというのが筆者の主張であり、一世を風靡した「東アジア共同体」に触れ、まずは東アジア「公共圏」をと提言している。
ここまでくると、「壁と卵」という言葉の意味も非常によく理解出来る。第1章で筆者は「壁」を個人の思惑を超えて構築されていく制度、慣習、システムと定義した。「卵」とは個であることも繰り返し表明されている。「壁と卵」とは、対話を通じて、「壁」を人間の意志が決定するものとして作り替える試みを指しているのである。
■対話の主体
さて、長々と『「壁と卵」の現代中国論』についての紹介を続けてきたが、最後に一点、本書のテーマそのものについての疑問を書いておきたい。
上述したとおり、本書がイメージするのは、日本と中国、先進国と中国という条件の異なる他者がいかに接触し対話するのかという問題であろう。なるほど、日本国、中華人民共和国の歴史的、経済的条件が異なるのは明らかだが、しかし中国と向き合う人間一人一人、企業一社一社については、そうした条件はもはや自明ではないように思われる。
私が将来中国で働くか日本で働くか、あるいはそのどちらでもない第三国で働くか、まったくこだわりを持っていない根無し草の人間だからかもしれないが、私が想定する対話の主体は、資本と労働者であったり、公権力と一般市民であったりと、考える問題ごとに流動的である。
「グローバルな正義」にとらわれない、東アジア「公共圏」が必要だと唱える時、この流動性の視点は失われてはいないだろうか。中国の民草に勝手に共感するという意味ではなく、まさしく自らも中国の労働者の一人になる可能性があるという点を踏まえるとするならば、筆者の説く対話はどのような形で実現できるのだろうか。本書からいただいた課題として考えて行きたい。
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