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道を閉ざされた底辺人民の怒りが革命を呼ぶ=何清漣コラム「民主政治と中国の距離」

2012年01月04日

■民主政治と中国の距離■


Rare Photos from the Cultural Revolution China
Rare Photos from the Cultural Revolution China / IvanWalsh.com


■クリスマスの「革命」論争

2011年のクリスマス。中国の言論界に突然の「革命」ブームが訪れた。鋭い風刺エッセイで人気の小説家・コラムニストの韓寒が「革命を語る」「民主について」、そして「自由を求める」という 3本のコラムをブログで公開したのだ。

政府批判で知られ、政治に興味がある若者たちにとってのアイコンだった韓寒が「革命は望まない」「中国人の民度じゃ革命は無理」「一般の民衆は民主化なんか求めてないよ」と発言し、「裏切りか」「買収されたのか」「いや、現実をよく理解している」と賛否両論が噴出し、大変な話題になった。

このいきさつについては本サイトで計5本の連載記事としてまとめている。全体像については最終回となった記事「「ファッション民主にサヨナラ」ばらばらの国を変えるために=韓寒コラム解読編」に詳しい。今回の記事も劇的に長いのだが、ラストに私の解説をつけたので忙しい方はまずそちらを読んでいただきたい。


■亡命学者・何清漣

韓寒が投げ込んだ石は大きな波紋を呼び、著名人から無名のネット民まで多くの人々が論考を発表している。その一人が今回ご紹介する何清漣氏である。

何清漣氏は1956年生まれの女性作家、研究者。復旦大学で経済学修士を取得した後、曁南大学での教職を経て、深圳法制報の編集者となった。1998年に『中国現代化の落とし穴―噴火口上の中国』を出版し2カ月で30万部を売る大ヒットを記録した。しかし、政府の腐敗を暴いた同書は発禁となり、何氏も当局の監視下に置かれることになる。2001年に米国に移住した。

邦訳書に『中国現代化の落とし穴―噴火口上の中国』『中国の闇―マフィア化する政治』『中国の嘘―恐るべきメディア・コントロールの実態』などがある。

中国政府の腐敗、言論統制の実態、暴力の蔓延を追求し、中国共産党はすでに行き詰まりを迎えていると説く何氏は、韓寒のコラムに何を思ったのだろうか。


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■民主政治と中国の距離
―韓寒のコラム「革命を語る」「民主について」「自由を求める」のレビューを兼ねて―


「中国は民主を導入しなければならない。しかもその時期は早いにこしたことはない。」すでに中国国民はこの認識を共有している。しかし、いかに実現するか。そのためにどれほどの「コスト」を支払うつもりがあるのか。この点に関して意見は食い違っている。その理由は簡単だ。社会各層がまず自分の利益を考えるからである。

韓寒には感謝したい。彼のコラムによって、革命と民主、自由に関する議論が中国ネット界に燦然と登場したのだから。今回の論争は80年代思想啓蒙期における「革命と改革の関係論」や、90年代以後の天安門事件の反省による「革命よ、さらば論」とは異なっている。今回の議論は概念の戦いではない。観念論の迷宮に陥ることなく、現実に対して自分が直接どうあるべきかという問題なのだ。各論者の議論はほとんど現実に対する一種の直接的な回答のように見える。


■韓寒の「変節」か?それとも大衆がもともと誤解していたのか?

・韓寒は変質していない。もともと開明的専制の支持者だった
まず革命と民主、そして自由の関係についてはっきりさせておこう。三者には関係性があるが、民主政治だけが目的である。革命は民主政治を実現する為の手段、しかも激しい手段に過ぎない。個人の自由は民主主義の基礎であり、また民主政治による保護を必要とするものである。

韓寒に対する批判や弁護は多いが、上海財経大学の李健副教授がマイクロブログでつぶやいた評価が最も的を射たものだと個人的には思う。 曰く、「韓寒のコラム「革命を語る」「民主について」「自由を求める」だが、その思想的文脈は明快だ。「革命には反対。民主に不安。自由を求める」ということだ」、と。

韓寒が変節したという人もいるが、私はそうは思わない。中国の大衆はずっと韓寒をひどく誤解していたのだ。韓寒はこの中国の土壌と国民性に絶望と言ってよい程の思いを持ち、そして強権独裁政治の統治下でいかに生きるかも学ばざるをえなかったのだ。そしてこのたび、韓寒はずっと暖めて来た自分の考え方を3つのテーマによって、簡単にまとめてみただけなのだろう。


・中国から失われた革命の条件―「知識人のリーダーシップ」
結論の一部に私は同意している。例えば、「ビロード革命を信じるってことはさ、「民衆の民度」「為政者の忍耐」「知識人のリーダーシップ」を信じる道を選ぶってことなんだよ。この3つが合わさって初めてビロード革命になる。だけど、今の中国には1つもないじゃん」という部分だ。

「民衆の民度」については議論があるところだろうが、中国の統治集団が振るう権力の横暴さたるやチュニジアのベンアリやエジプトのムバラクの比ではない。「知識人のリーダーシップ」もこの6、7年で目に見えて弱まっている。現実と社会に対する責任感のある学者も一部にはいるとはいえ、その役割は少数の行動者と口だけの行動者によって、ひどくおとしめられている。


・中産階級は革命を恐れている
韓寒は個人として発言しているが、しかし、その思想は中国中産階級の基本的共通認識となっている。現時点では、中産階級の大部分は体制に依拠、あるいは部分的に依拠して生活している。自由がなく、生活に圧迫感を感じ、政治的腐敗に絶望してはいる。とはいえ、「草の根民主」に対する態度はわずかながらの肯定を含むものの懐疑的な態度にとどまっている。

それというのも中国人の歴史的記憶においては、共産革命、すなわち殺戮と個人及び公共財産の略奪を目的とした農民革命こそが「革命」のモデルとなっているからだ。先日の烏坎事件が広東総督(広東総督は清朝の官職)・汪洋の太極拳(当局側の譲歩による懐柔策)によって、一時的とはいえ問題が解決された。

その後、中国国内では汪総督の評価がうなぎ上りとなった。この点から見ても、中国の主流的意見は中国政府が開明的専制を実施することに、すなわち韓寒が望む一定の言論空間と個人的自由が与えられる権威主義体制を望んでいることがうかがえる。


・韓寒支持から韓寒批判へ=中共体制に我慢できなくなった時代の変化

韓寒は長年、現体制とその欠陥について辛辣に批判してきたが、その批判もまた(開明的専制を望む)レベルを超えるものではなかった。韓寒の主張が広く受け入れられたのも時代のなせるわざと言えるだろう。過去数年は中国社会の矛盾もまだ全面的には激化していない。生活水準上昇の途上にあった中産階級はカプチーノを飲み、プチブル的な暮らしを送りながら、未来の美しい生活に思いを馳せていた。中国国内ばかりか、国際社会もまた、中国の未来は自然と民主政治に進むという期待にあふれていた。こうした社会の雰囲気を背景に、韓寒はあのほどほどに体制批判的な風刺コラムによって、ゼロ年代後期中国文化のアイコンとなり得たのだ。

今回、韓寒の革命・民主・自由3論がネット上で強い批判を浴びたのは、韓寒の思想が急転したからではない。むしろ中国の社会条件が急激に変化したからであろう。軽妙な風刺や揶揄といったネット世論の主流は今や重苦しい怒りと絶望へと静かに変化しつつある。

同時に国際社会の中国に対する態度も変化しつつある。例えば、米政界だ。対外開放と経済改革を続ける中国が民主政治に「平和的変化」するとこれまで考えてきた。しかし、今年からというもの、米政界は従来の期待は現実的はないと疑いを抱くようになった。中国の「平和的変化」には大きな疑問符がつけられ、しかもその疑念はますます色濃くなっている。

この時期における大衆による韓寒の誤読、そして一般市民とエリートの相互作用がいかにエリート社会を形成したのかという問題は、研究価値のある時代的テーマと言えよう。


・自由はタダではない
さて、韓寒のコラムについてだが、私には同意できない点が2点ある。第一に現在の中国ではいかなる手段を用いようとも、一党独裁政治を速やかに終わらせることが道義的に正しいと私は考えている。第二に自由はタダではないと私は理解しているが、韓寒はなるべく安く、あるいはタダで手に入れようとしているという点だ。

今年、「アラブの春」に巻き込まれた国々を見てみよう。チュニジアが比較的穏健だったことを除けば、他国では(今起きているエジプト第二革命を含む)は政治的駆け引きと同時に、「剣と剣の交渉」が必ず存在した。


■中国の政治的言語環境における革命、民主、自由
・言論の自由を望む中産階級とインテリ、生存権を求める大衆
中国十数億人の希望や要求に目を向ければ、その属する社会階層、保有する社会的リソースに伴い、各階層・集団の希望と要求は異なる。きわめて大きい意見の違いがあることもあるだろう。

例えば現在のプロレタリア大衆が最も必要としているのは、社会分配の相対的な公正であり、自己の生存権の保障こそが喫緊の課題である。インテリ及び中産階級の希望は言論の自由、結社の自由に対する規制緩和だろう。

現体制下では、プロレタリア大衆は公正・公平を得られず、生存権の保障すらも得られない。彼らが求める権利は(ネットの)バーチャルワールドで代替品を見つけるというわけにはいかないのだ。一方、中産階級とインテリは言論の自由、結社の自由が得られないとはいえ、インターネットというバーチャルワールドで、部分的とはいえ代替品を見つけることができた。マイクロブログにおける限定的な言論空間、バーチャルな同志の集まりがそれである。

しかし、社会矛盾の蓄積と爆発により、「社会安定」を目指す当局の規制は強化が続いている。「五不搞」を堅持する統治者、あるいは(共産党の)毒にどっぷり中毒になっている者以外の人々で、少しでも考えられる人間は程度の差こそあれみな知っているだろう。民主制度こそプロレタリア大衆が渇望する公正と公平を保障し、中産階級と知識人集団が求める個人の権利と自由を与えるであることを。
(「五不搞」とは2011年3月に呉邦国が提唱した言葉。多党制、政治思想の多元化、三権分立と両院制、連邦制、私有制の5つを絶対に導入しないという宣言。政治改革を唱える温家宝との対立が背景にあるともささやかれた。)


・来るべき中国革命の原動力とは誰か?
中国人の意見は分裂しているとはいえ、その分岐はどのようなルートで民主政治を確立するかにある。率直に言ってしまえば、民主政治を手にするためにどれだけのコストを支払う気があるのかという問題なのだ。この点を意識しさえすれば、どの階層こそが変革を求める主力なのか、その階層が変革を進める力をどれほど手にしているのかが分かる。

そう考えれば、中国の中産階級が革命を求める主力でないことは確かだ。現体制の中国において、権力者の縁故なく中産階級に属するということは大変な成功だ。一生を費やした努力、いや、あるいは親子二代の奮闘努力のたまものなのである。

中国人がよく知っている革命、すなわち共産革命と太平天国の乱は「すべてを奪い尽くし、人類社会の秩序を転覆させる」ことに特徴があった。もし、「来たる中国革命の犠牲はチュニジアのように死者100人程度だ」と中国人に信じさせることができたならば、人々は革命を「到来して欲しいが同時に恐ろしくも思う」といった状況から抜け出させるかもしれない。

しかし、中国ではいままでの革命の経験から中国のインテリ・中産階級は骨の髄まで権力の同盟者であり、社会の安定こそが主要な願いなのである。


・大衆の要求が爆発力へと変わる時
では中国のプロレタリア大衆は革命への願いはないのか?当然ある。ただそう考えている人は多いとはいえ、まだ明確ではない、ぼんやりとした要求である。正当な身分上昇の道がほとんどない中国社会では、近年、権力とリソースが世襲される傾向が強まっている。プロレタリア大衆が学問を通じて、身分上昇を果たし、自らの運命を変える希望はほとんど断たれてしまった。

この社会背景にあって、ひとたびプロレタリア大衆の要求が何者かに導かれることがあれば、あるいはなんらかの外在的要因に遭遇すれば、爆発力へと代わるだろう。広東省共産党委委員会副書記の談話はこのおそるべき危険性に気がついていることを示している。
(副書記の談話とは、烏坎事件における朱明国の言葉。「官僚は基層民衆のことを考えよ」と訓示した。財経網

かつて共産革命において、共産党は「大衆動員」のために大衆に革命理論を植え付けていた。今はまったく異なる時代となった。現行の教育は、共産党の統治の正当性を論証するためのものに変わっている。マルクスと毛沢東の決まり文句「搾取は悪」「造反有理」等のお説教をせっせと植え付けているのだ。

チュニジアやロシアなどの開明的専制体制では、民衆は結社の自由を持つ。そのため人々は独自の組織を結成することができ、自らの利益を訴え統治者に圧力をかけ政策変更を迫ることが出来る。一方、中国の暗黒専制はあらゆる手段を用いて民衆の自己組織能力を消滅させている。各階層が互いに討論、交流するプラットフォームすらきわめて不足しているのだ。


■予想される未来と唯一可能性がある中国の危機回避戦略
・「自己利益型政治集団」に堕した中国共産党
国民が期待している(あるいはかつて期待していた)「改良」の道は今や希望を見いだせないものとなってしまった。私は2008年時点ですでに論文「改革30:国家能力の奇形的発展とその結果」で次のように指摘している。

中国政府はとっくの昔に「自分にサービスするための自己利益型政治集団」に堕落している。この種の政治の特徴は、政府は慣性で動く巨大機械のようなものになっていて、構成員全員がたんなる機械の部品に過ぎないという点にある。

集団構成員の一部が危機の到来を察知し、その原因までも知っていたとしても、彼らには慣性で動き続ける機械を止めるだけの能力はない。昨年来、温家宝首相は数度にわたり政治体制改革に関する講話を発表しているが、現実の政治には全く影響を与えていない。なぜならば、温にはこの狂った機械を止める力はないからだ。まさにその種の「改良」の望みがないゆえに、中国のエリートや中産階級は熱烈に移民を熱望し、自分と家庭を守る危機回避戦略としている。

「自分にサービスするための自己利益型政治集団」による統治が長続きすることはない。いまだに「経済発展は社会の民主化を促す」などと信じているのは、古くさいお馬鹿な人だけであろう。


・革命の前提条件と最悪の結末
歴史を鑑みるに革命は3つの条件が熟した時に起きる。

(1)経済危機(特に政府の財政危機)の全面的爆発。
(2)人心が変革へと傾き、しかもその手法についても共通認識が生まれた時。
(3)国際社会(共産党の警戒する「外部勢力」)が持続的に(変革を)促し、しかも重要な時期に強力な介入を行う時という3要件だ。

中国にとって最も残酷な未来とは、革命が到来する前、「壊れているが、崩壊には到らず」という段階において、社会再建に必要な重要な資源を使い果たしていることだろう。そうなれば「失敗国家」の仲間入りを果たすことになる。


・中国共産党に残された道
中国共産党はいまだに権力を失っていないとはいえ、すでに人民(の心)を失っている。時間が許すならばという前提付きではあるが、中国共産党が自分たちと中国を救うために打てる最善の手法は次のようなものとなるだろう。

まず部分的に権力を放棄し開明的先生を構築する。社会に相対的な言論の自由と結社の自由を与え、次第に政党創設禁止を緩和していく。条件が満たされた地域には地方自治を許す。

こうした条件を備えれば、中国社会は暴力の温床となる可能性を低下させることができる(暴力は革命だけに限らない。刑事事件などの暴力の蔓延も含んでいる)。そうなれば、中国共産党が歴史の舞台から退場する方法もずっと穏健なものとなるのだが。

訳:Takeuchi JunJunさんによる翻訳
校正及び小見出し:Chinanews

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■「革命はイヤだ」はプチブル的発想だ

前半が韓寒の解釈、後半が何氏の見る革命の道筋という構成だ。何氏の韓寒評を強引に要約させてもらうならば、

反体制のアイコンとして見られていた韓寒だが、結局は中国の成長を享受していた中産階級の支持を受けていたに過ぎない。韓寒及び中産階級は中国において成功者の部類に属し、もともと根本的な変革を望む立場にない。ちょっと良い独裁=開明的専制を求めていたに過ぎないのだ。今回のコラムはその立場を素直に表現しただけ

となろうか。

記事「「「ファッション民主にサヨナラ」ばらばらの国を変えるために=韓寒コラム解読編」で説明したとおり、私の韓寒コラム解釈は「できもしない、やりもしない妄想を口にして楽しんでいるのではなく、民主を望む人間は各自の立場に根ざしたできることをやっていくべきだよね」というものである。

中国に革命が起きるのか、できるのかというネタは話のフックであり、たいした価値はない。数多くの反応があったとはいえ、ほとんどが「中国人の民度は低いのか?」「革命はできるのか?」という話ばかりで、韓寒の投げかけた核心的な問いかけについては、ほとんど反応がないのが残念なところであり、また今の中国民主化シンパの人々が陥っている袋小路の深刻さを示すものだったと言えるだろう。

何清漣氏は「韓寒の主張はインテリ、中産階級的。すなわちプチブルの発想である。来るべき革命の主力たるプロレタリア大衆の発想ではない」と切って捨てているわけだが、結局のところ「個々人の生き方、態度」という韓寒の提起にはふれず、あくまで中国社会の現状のみをとりあげている点では他の論者と同じ罠にはまっている。


■迫力ある破滅予想図

後半の革命の道筋は、何氏ファンにとってはある意味、おなじみの主張だ。

・汚職マシーンと化した中国共産党。温家宝など改革派にも変えることができない。
・大学に合格したら人生が変わる身分上昇の道(科挙的チャイナドリーム)は失われた。権力とリソース(コネなどの社会資源)はますます世襲化されている。
・生活は保障されているが言論の自由は欲しいというプチブル的中産階級は革命の主力たりえない。
・自己の生存権すら保障されていない底辺の人々こそが革命の主力だ。
・言論の自由と結社の自由がない中国では、底辺の人々が要求を伝える手段がない。
・たまりにたまった不満はなにかのきっかけで爆発を起こすだろう。
・変える手段は民主政治しかない。変えるのが遅れて、中国のリソースを使い果たせば、もはや立ち直りはできない。

という感じでまとめられるだろうか。はけ口のない基層民衆の不満が高まり、全面的な矛盾の激化を迎え、なんらかのきっかけで爆発する、という読みだ。

では現在の中国はこのタイムスケジュールのどこに位置すると何氏は考えているのか。この文章だけを見ると、「民主政治確立は中国人の共通認識」と言ってみたり、「いまだに開明的専制への期待が残っている」と言ってみたり、あいまいになっているような気がするが、韓寒的プチブル感覚とネット世論の乖離が始まったという評価から考えると、現在は中共統治への期待が失われ、矛盾が高まりつつある過程との評価なのだろう。


■矛盾は全面的に激化するのか?

この現状認識については議論があるところだろう。何氏は、中国基層民衆がむきだしの権力の横暴の下、ひたすらに不満を高めているように描いているが、しかし、中国共産党はそれなりに基層民衆への懐柔策を打ち出している。

中国の農村は貧しいが、農業税の撤廃やら農村開発支援やらの中国政府による「恩恵」が投入されている こともまた事実である。「耕地面積あたりいくらの補助金がもらえればとりあえず食っていけるから面倒な農業は適当にやるぜ」という怠け農民の出現が問題となったり、あるいは韓寒が田舎で出会った人々のように「権力者はラッキーでいいなぁ。うちの親戚にも権力者いたらいいのに」というのんきな感想を持つ人が少なくないのではないか。

「中国社会の矛盾は全面的な激化を迎えている」「中国の社会条件が急激に変化したからであろう。軽妙な風刺や揶揄といったネット世論の主流は今や重苦しい怒りと絶望へと静かに変化しつつある」という現状認識には疑問を感じる。


■何氏コラムの2つの衝撃

さて、今回の何氏コラムで衝撃的だと感じた点が2つある。第一に「暴力革命やむなし」と明確に打ち出したこと。共産革命や太平天国の乱は秩序転覆型の農民革命と定義しておいて、来るべき革命もまたプロレタリア大衆が主力と見ているのだから、再び秩序転覆型革命が起きるという想定なのだろうか。

「チェコのビロード革命、最高ッス」と革命万歳を叫んでいた民主化シンパの人々もこれにはびっくりし、勘弁して欲しいと願う人が多いような気がするのだが。

第二に国際社会が「対外開放と経済改革を続ける中国が民主政治に「平和的変化」する」との考えを捨てつつあるという指摘だ。そんな妄想を抱いていたやつはバカだと思われるかもしれないが、1991年、中国の世界貿易機関(WTO)加盟時にはかなりおおまじめな主張であり、期待も高かったと記憶している。

昨年来考え続けてまだまとめきれていないのだが、WTO加盟からの10年はきわめて重要なテーマである。文化的対外開放の促進による民主化ムードの育成はもちろんのこと、国際的商慣行に中国を抱き込むという戦略もかなりのレベルで失敗してしまったように見える。

今、振り返れば、WTO加盟が中国から最大限の譲歩を引き出せた最後のチャンスだったのではないだろうか。

何氏が説く「中国社会の矛盾の全面的激化」とは、つまるところWTOによって加速した中国の経済成長と再配分の偏りにほかならない。国際社会は国際経済に引き込むことで中国の民主化を手助けするという目論見に失敗したどころか、共産党政権の強大な経済基盤形成に力を化してしまったのではないだろうか。

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