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「モスクワ人はいつもおいしいところを持っていく」英雄像を見る複雑な心境―ロシア(タチアナ)

2012年01月19日

■モスクワに銅像をとられてしまったニジニ・ノヴゴロド■

*本記事はブログ「ロシア駐在日記」の2012年1月18日付記事を許可を得て転載したものです。


モスクワの赤の広場に行ったことのある人であれば、聖ワシリー大聖堂の前にあるこの銅像を必ず見ていると思います。

20120118_写真_ロシア_赤の広場_1

銅像の二人(ミーニンとポジャルスキー)とは、1612年にモスクワをポーランド軍から開放したロシアの郷土防衛隊を率いた英雄たちです。ちなみに、ロシアでは11月4日に「国民統一の日」という祝日がありますけれども、まさにこの勝利にちなんだものです。

20120118_写真_ロシア_赤の広場_2
(去年の秋に撮った写真なのでちょっと季節はずれです・・・)

しかし、赤の広場でこの銅像を見るときのニジニ・ノヴゴロドの住民たちの心中は穏やかではない。この記念碑を「モスクワにとられた」と考えているのです

実は、モスクワを占領していたポーランド軍を1612年に追い出したのは、ニジニ・ノヴゴロドから来た郷土防衛隊のメンバーだったのです。またその時に必要な寄付が集められた場所も、ニジニ・ノヴゴロドでした。(途中からヤロスラブリなどの人々も入隊するするようになった)。

そういう経緯があって、もともと記念碑を作る案が出たのもニジニ・ノヴゴロドですし、記念碑を設置する予定の場所もニジニ・ノヴゴロドでした。記念碑のアイディアが生まれたのは1803年で、そこからニジニ・ノヴゴロドの住民たちの間で募金が呼びかけられ、私が知っている限り銅像の費用の大半は、ニジニ・ノヴゴロドの人々が寄付したものです。

ところが、全国にとってのこの勝利の重要性を考慮に入れ、記念碑をニジニ・ノヴゴロドではなく、モスクワで設置することになってしまいました。そして、ニジニ・ノヴゴロドには、銅像の代わりにこういうモニュメントが設置されました。

20120118_写真_ロシア_赤の広場_3

運ぶときにモニュメントが折れてしまい、直した痕跡が肉眼でもよく見えます。

20120118_写真_ロシア_赤の広場_4

郷土防衛隊を集めモスクワからポーランド軍を追放したのはニジニ・ノヴゴロド。立派な銅像を作ろうと思い一生懸命募金したのもニジニ・ノヴゴロド。ところがすべてモスクワにとられてしまい、自分たちのところには味も素っ気もない壊れ物が残ってしまった。この話をするとき、ニジニ・ノヴゴロドの人たちは一人残らず苦笑いをします。

ちなみに、2005年には、ニジニ・ノヴゴロドのクレムリンの近くにモスクワの記念碑のコピーが作られました。

20120118_写真_ロシア_赤の広場_5

ニジニ・ノヴゴロドのクレムリンの高台に設置してあるモニュメントとは違って、このコピーがおかれているのは、クレムリンからヴォルガ川の方に下りたところです。ずいぶん目立たない場所だなと思っていたら、どうも昔、今とは違ってこの場所はかなりにぎわっていたらしくて、1611年にミーニンが市民に呼びかけたのは、まさにこの教会の前だったそうです。

20120118_写真_ロシア_赤の広場_6

この話を母にすると、「モスクワの人って昔からああいうふうだったのね」との一言。おいしいところばかり持っていくという、モスクワに対する地方の人々が抱いている気持ちを表わす一言だと思います。

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*本記事はブログ「ロシア駐在日記」の2012年1月18日付記事を許可を得て転載したものです。
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