2012年1月19日、米国に事実上の亡命を果たした中国の作家・余傑は、この1年あまりの体験、当局による拷問や監視などを克明に描いた文章「中共の暴政を暴き、自由世界へ―わが出国声明」を公開した。
余傑は1973年生まれの作家。大学時代から政府の監視にも屈せず、反体制的な著作活動を展開してきた。ノーベル平和賞受賞者・劉暁波の友人でもある。劉暁波のノーベル平和賞受賞に伴い、中国政府が反体制知識人、人権活動家の取り締まりを強化し、余傑は過酷な拷問を受けることとなった。
2012年1月11日、米国にわたり、事実上の亡命を果たした。今後、正式に亡命を申請する方針だという。渡米後は活発な発言を続け、日本メディアを含む各国メディアのインタビューに応じているが、最も詳細にこの1年間を振り返ったのが今回ご紹介する「中共の暴政を暴き、自由世界へ―わが出国声明」である。
延々と続く克明な拷問の描写、執拗なまでの中国の「暴虐政権」批判、胡錦濤・温家宝ばかりか国保1人1人が裁判にかけられるべきとの言葉。非常に長い文章だが、余傑氏の怒りが伝わってくる内容だ。
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余傑「中共の暴政を暴き、自由世界へ―わが出国声明」
■はじめに
2012年1月11日午後、一家3人は北京発米国行きの航空便に乗った。国保5人が自宅から搭乗口までずっと着いてきて、一緒に写真をとれと要求。その後、大いばりで帰っていった。
(国保とは:中国公安部国内安全保衛局。警察の一部局として各地方警察にも管轄部局がある。人権活動家、民主化活動家の監視、拘束などを任務とする。)
中国を去る選択は困難であり、また時間が必要でもあった。
■「不自由作家」としての生活
1998年、北京大学在学中に処女作『火と水』を出版してからというもの、私はずっと中共中央宣伝部安全部門の厳しい監視下に置かれていた。2000年の北京大学修士課程卒業後も当局の干渉により、卒業即失業という憂き目にあった。ゆえに文筆で生計を立てる「不自由作家」となったのだった。
江沢民時代はまだある程度の自由な言論空間が残されており、一部作品は中国国内で発表、出版することができた。2004年に胡錦濤・温家宝体制が誕生して以来、私は完全に封殺されてしまった。中国国内のいかなるメディアであっても、一文字も発表できなくなったのだ。それどころか、他人の文章ですら、私の名前が引用されているだけで検閲、削除されてしまう。私の体は国内にあったが、すでに「心の亡命者」であり、公共空間には「存在しない人間」であった。
それでも私は創作を続けた。一人の独立した知識人として、中共批判を続け、劉暁波と親しい友人となり、肩を並べて戦った。海外では15冊前後の本を出版した。発表した論考は1000本に達するだろう。こうした創作活動により、何度となく(国保に)呼び出され、軟禁され、恐喝されるなどの各種嫌がらせを受けた。状況は困難になるばかりだった。ここ数年、米国や欧州を訪問すると、友人たちは帰国しないよう勧めてきた。「命の危険さえなければ、中国を離れる事はできない」というのが私の考えだ。
■劉暁波のノーベル平和賞受賞
一人の作家として、言論と出版の自由は最も基本的な権利であり、また一人のキリスト教徒として信仰の自由は不可欠なものである。そして、一人の人間として恐怖からの自由も欠くことのできないものだ。
しかし、2010年10月8日、最高の親友である劉暁波がノーベル平和賞を受賞するというニュースが伝えられた後、私は最も基本的な自由を失った。違法監禁、拷問、監視、追跡、そして「強制旅行」が日常生活の一部となったのだ。1年以上にわたる非人間的扱いと苦しみと戦った後、私は中国を離れるという選択をするしかなかった。ファシズム化した、野蛮かつ暴虐の中国共産党政府と徹底的に決裂したのだ。
この一年あまりの経験について語ろう。2010年10月8日、劉暁波ノーベル賞受賞のニュースが伝えられたその日、私は米国訪問中だった。昼間、南カリフォルニア大学で講演し、夜にこのニュースを聞いた。当時、私は深く感動し鼓舞され、ただちに帰国の準備を始めた。「中共当局は怒り狂っているだろう。中国国内の人権状況は急激に悪化している。しばらく米国に滞在して様子をみたほうがいい。」友人たちはそう勧めてきた。しかし、劉暁波は10年来の親友であり、先輩である。彼が独立中文ペンクラブの会長であった時、私は副会長だった。この間、劉暁波が参加したほぼすべての活動に私も参加している。2008年12月に劉暁波が逮捕されて以来、彼の妻の劉霞の同意を得て、私は劉暁波の伝記執筆に着手した。だから、一国も早く帰国して劉暁波の友人、親戚へのインタビューを続け、できるだけ早くこの重要な著作を完成させたかったのだ。
■病院にも行けない監禁生活
ノーベル賞獲得の報道の5日後、10月13日、私は米国から帰国した。飛行機を降りるとすぐに北京の国保により自宅に違法軟禁された。4人の私服警官が24時間、玄関を見張っている。なんと我が家の玄関の前に机を置き、扉が開かないようにしたほどだった。自宅周囲には6台のビデオカメラと赤外線探知機が設置された。蟻の這い出る隙もない、大げさな警備体制だった。
最初の数日はまだ妻は出勤を許されたし、劉霞の弟と妻も連絡をとることができた。劉暁波のために服や食べ物を買うこともできた。だが、ある日、不運にも劉霞の弟が持っていた、劉霞から我が妻に当てたメモを警察に発見されてしまった。以来、妻の携帯電話は使用できなくなった。出勤も許されず私同様の監禁の身となった。
ある日、妻は病気になった。40度の熱でほとんど意識がない状態だ。警察はそれでも医者に行く事を許さない。朝陽区公安文局の郝琪的という国保は「たとえお前が病死したって外には出さない。死んだら誰か上のやつが責任をとるだろう」と無慈悲に言い放った。この非常時に私はネットで助けを求めた。ツイッターで発した私のSOSを見て、善意あるネット民が救急車を呼んでくれた。
警察はそれでも医者を家に入れようとしない。幸運にもその医者が頑張ってくれて、最後には連中も妻の体温を計ることに同意した。医者は高熱で危険な容態だと話し、病院での点滴治療が必要だといった。何回か交渉した末、夜明け近くになって妻は警官6人とともに救急車で運ばれた。ただし私の同行は許可されなかった。
事態はその後さらに悪化した。11月初頭から、我が家の電話、ネット、携帯は全て切断された。誰も私たちと接触できない。私と妻は自宅の中で、完全に世界と隔絶された状態にされた。生活に必要な品々はメモに書き、金と一緒に国保に渡し、買って来てもらうのだ。私たちは外で何が起きたかも知らず、両親や子供とも連絡がとれなかった。こうした生活が毎日続いた。いつ終わるかわからない。それは牢屋より辛くひどいもののように思われた。懲役にはまだ刑期がある。家族の訪問もある。毎日の運動もある。だが私たちは真っ暗な洞窟に入れられたも同然だった。毎日が途方もなく長く感じられる日々だった。こんな時間がほぼ2カ月にわたって続いた。
■ノーベル平和賞授賞式と拷問
12月9日、ノーベル平和賞授与式の前日、生涯で最悪の日がやってきた。午後1時過ぎ、以前かたびたび私と接触していた朝陽区の王春輝という国保は、自宅のある豆各庄派出所の馬所長とともに我が家にやってきた。「うちのボスがあんたと話したい」と言ってきたのだ。この罠を私はまったく疑わうことなく、普段着の上にコートだけ羽織って、彼らと一緒に家をでた。
マンション階下まで着いた時、異常に気づいた。そこには十数名の私服警官と数台の車が待っていた。2人の大男がいきなり私の顔をはたき、眼鏡を吹き飛ばした。黒い頭巾を私の頭にかぶせ、車の後部座席に押し込めた。車はすぐに発進。両脇の私服が私が身動きできないように押さえつけた。
約1時間後、車はある秘密の場所に到着した。一人の国保が私の頭を脇に抱えながら歩き、ある部屋へと連れ込んだ。椅子に座って一切動くなと彼らは命令。ちょっとでも動くと殴る蹴るの暴行を加えられた。この間、私はずっと黒い頭巾をかぶせられたままだった。
夜10時ごろ、連中は私の頭巾を外した。ほっとしたとたん、数人の私服警官が襲いかかってきて、真っ正面から私を殴りつけた。服を脱がされ、素っ裸で床の上に転がされた。彼らは狂ったように私を蹴率づけた。連中は暴行されている私を写真に撮り、「裸の写真をネットにばらまいてやる」と自慢げに話していた。
それから連中は私をひざまずかせた。まず百回ぐらい平手打ちを喰らった。その後、自分で自分を平手打ちするよう命じてきた。彼らにもはっきりと音が聞こえるぐらい強く叩いて、連中はやっと満足し狂ったように笑い出した。連中はさらに私の胸を蹴り、倒れた私をさらに踏みつけた。肋骨が折れたようで、その後1カ月は胸に痛みが走り、朝起きることすらつらかった。
連中は私の指を開かせては一本ずつ逆に折り曲げ、「おめえの手は共産党を攻撃する文章をいっぱい書きやがったな。指を全部、一本一本へし折ってやる」と言った。またタバコの火を私の顔に近づけてきた。タバコの熱で肌が焼ける痛みをはっきりと感じた。そして連中は侮辱するかのようにタバコの煙りを顔に吹きかけた。
彼らはずっと私を辱める言葉を吐き続けた。売国奴だ、漢奸(民族の裏切り者)だ、クズだ、と。さらに家族や友人を侮辱した。その侮辱を私自身が繰り返すようにと強要された。従わないと、それまでに倍する勢いで殴ってきた。
■反体制知識人など一晩で全員生き埋めにすることもできる
連中のボスは言った。「おめえは3つの大罪を犯した。一つはこの10年、劉暁波による反動的行為すべてに積極的に参加してきたこと。おまえらは帝国主義が中国を転覆させる道具だ。二つ目は、香港で『中国のムービースター・温家宝』という本を出版したこと。共産党と国の指導者の悪口を言ったんだ。三つ目は、劉暁波の伝記を書こうとしていること。そんな本を出版したら、絶対に刑務所に放り込んでやる」、と。
その男はこうも言った。「もし上層部が命令を下せば、30分で穴を掘って、おまえを生き埋めにしてやる。世界の誰もそのことを知らない。今、外国人は劉暁波にノーベル平和賞を与えて、我々の党と政府を侮辱している。俺たちはお前を殺して復讐するのだ。」そして、「国保が把握している情報では、中国国内の影響力を持つ反体制知識人は合計でも200人以下。もし中国共産党中央がその統治に危機を感じたら、一晩のうちに200人全員をとらえ、生き埋めにすることもできる」と続けた。
■病院での治療と空々しい弁解
暴行が何時間続いたかは分からない。私は意識を失い、全身をけいれんさせたので、病院に連れて行かれた。ほとんど意識がないもうろうとした状態だったが、北京郊外の昌平区だと分かった。医者は「怪我が酷すぎる。ここじゃ助けられない。大病院を訪ねて試してみなさい」と言っていた。警察は「じゃあ救急車を出してくれ。金は払う」と言ったが、医者は「うちの病院の救急車には特殊な設備はない。すぐに市内から救急設備のある救急車を呼びなさい。さもなければ助からないだろう」と話していた。
すぐに救急車がやってきた。私は北京の「高級幹部向け病院」である北京医院に連れて行かれた。国保は、「李力」という偽名を私につけ、病院には「てんかんを起こした」と説明していた。
数時間にわたる救急治療の末、私はなんとか死の寸前から呼び戻された。翌日、医者は私に事情を聞いた。私は「連中が殴ったんです」と話した瞬間、警官は医者を呼びつけた。別の警官が私の耳元で「もしそれ以上デタラメを言えば、お前の身体についているチューブを全部ひっこぬいて殺してやる」と脅してきた。
10日午後、生命の危機から脱したと見て、連中は私を病院から近くのホテルに移した。午後休んだ後の夕方、連中のボスが来ると言って別の部屋に連れて行かれた。于と名乗るその男は北京市公安局副局長、国保総隊長だと名乗った。于は空々しくも「昨日の事は誤解です。部下が間違えたのです。外部にそのことを話してはなりません」と言った。数日後、私はまた郊外の別の所に連れて行かれた。それから連日、ここ数年かかわった活動と文章について取り調べを受けた。そして外国の記者と会わないこと、いかなる訪問も受けないこと、外国大使館スタッフと接触しないこと、文章で中共政治局常務委員9人の名をあげて批判しないことなどの条項を含む誓約書にサインさせられた。
■基本的な生活すら送れなくなった1年間
13日、私は釈放されて帰宅した。それから2週間後、私と妻は外出を許された。ただし、24時間階下で監視している国保警察に行き先と帰宅時間を告げなければならなかった。12月下旬、私は四川の実家に帰った。彼らは飛行場までついて来た。その後4カ月実家で暮らしたが、半月ごとに(現地の)国保が訪ねてきて、生活状況について質問してきた。訪問者は姜と名乗る所長、張と名乗る科長、そして数人の若い部下。彼らが私の担当チームだった。
この1年間というもの、いわゆる「敏感な時節」になると私は違法に自宅軟禁されるか、「強制旅行」させられた。例えば祝祭日や記念日、党や国の重要な会議がある日、外国要人訪問の日などだ。ゆえに「敏感な時節」は頻繁にやってきて、日常のほぼ半分もの時間で、私は自由を奪われた。海外での文章発表もほぼできなくなった。文章がでるやすぐ国保が脅しに来たのだ。私たち一家3人は全員違う場所で暮らさなければならなくなった。私は北京市外に連れ出され、妻は北京で仕事し、子供は四川の実家で祖父母に面倒を見てもらっていた。まもなく妻の勤務先にも国保の圧力がかかった。妻も仕事を失った。これは初めてのことではないが。私は教会の集まりにもいけず、聖書の研究もできなかった。キリスト教徒としての正常な信仰生活を送れないことは、わたしにとって極めてつらいことだった。
つらいだけではなく、基本的な生活すら許されない。こんな状況を続けることはもうできない。一家が共に生活できず、ものを書く自由が完全に失われ、命の安全さえ保障されない状態なのだ。真実を語り続ける知識人として14年間にわたり、国内にとどまる道を守り続けてきたが、ついに出国という決定を迫られることとなった。
■出国禁止解除と誓約書
しかし、2011年夏、警察に出国の要求をしたが、連中は上層部が認可しないと言ってきた。交渉を続け、ついにクリスマス後ならば検討してもいいと言ってきた。クリスマスが過ぎた後、私は米国行きのチケットを買った。その上で国保に「どんなことがあろうとも出国する。もし空港で拘束するならば、全力で抵抗し、(その場で)一切の真相をぶちまける」と言った。連中は出国禁止が解除されるよう上層部とかけあうと約束した。
2012年1月9日、搭乗日の前々日に迫ったその日、北京市国保総隊の姜処長が連絡してきた。新任の北京市公安局副局長、国保総隊隊長の劉が会いたいと言っている、と。翌日、あるホテルの逸失で私は劉と名乗る官僚に会った。彼はあの于の後任だという。劉は私に誓約書を書くよう求め、応じるならば(出国禁止の解除を)検討すると話してきた。
要求された誓約書の内容はおよそ以下の通り。
私はこの一年あまり、過去10年間書いてきた文章について振り返ってきた。その結果、私の文章、とりわけ海外メディアで発表した政治評論の類には多くの問題があることがわかった。第一に私は書斎の中で執筆作業をするばかり。引用した資料の多くは裏付けのないネット情報、すなわち誤った情報と資料を使っていた。実地調査をすることもほとんどなく、結果として間違った結論に行き着くことが多かった。
第二にまた私の立論方法も偏向していた。中国社会の暗黒面や欠点ばかりを見て、中国社会の大きな進歩を見ていなかった。これらの文章を発表したために、調和社会主の建設に害を及ぼし、読者に誤解を与え、中国の発展という大局に損害を与えてしまった。
現在の状況を鑑みて、私は自分の生活をいささか調整したいと考えた。北京大学では近代文学と思想を専攻しており、政治評論は専門ではなかった。キリスト教徒になってから、その歴史に大きな興味をもったのだ。だから、私は学者に立ち返ることを決めた。自分の特長を生かし、米国ではキリスト教の歴史を研究し政治評論は書かないと決めたのだ。また成長の過程にある我が子が、米国でより良い教育を受けられることも希望した。こうして私は一家全員で渡米し、一定期間、滞在すると決めた。だから、渡米後は中国の憲法と法律に違反するようなことはしない。中国の国家と人民の利益に反するようなことはしないと約束した。
圧力の下、この誓約書を書いた後、私の出国禁止は解除された。「米国に行っても自由だなどと思わないで欲しい。もし話すべきでないことを話し、やるべきではないことをやった場合、あなたは帰国できなくなる。あなたの家族(両親)はまだ中国国内にいるのだ。帰国して家族に会いたいと思わないわけではないだろう?言葉と行動を慎みたまえ」と、この高級官僚(劉)は言った。憲法で国民に与えられているはずの出入国の自由を盾にして国民を脅す政権。彼らの虚偽と虚弱が透けて見えた。
■米国に着いた今
こうして1月11日、私たち一家は国保の厳重な監視下、米国行きの航空便に乗った。そして今、私は米国という自由な国にいる。ここに私は重ねて宣言する。拷問と脅迫の下に書かされた誓約書は、自分の真実の願いに反するもの。すべて破棄する、と。
そして、もう一つ宣言する。この1年あまりに経験したすべてを私は国際社会に公開し、国連国連人権理事会などの機関に訴える。私は共産党独裁制度に関する批判的執筆活動を続ける。日増しにファッショ化し、野蛮かつ残虐さを増す政権は自由世界にとって最大の脅威であり、自由を熱愛するすべての人々にとっての最大の脅威である。私はこれからも揺るぎない決意をもって、中共の暴政に反対しつづける。
渡米後、直近の出版計画についてお話する。まず2カ月以内に『劉暁波伝』中国語版を出版する。中国語版に続き、各国語版の翻訳版も出版する。この伝記は2009年から執筆を始めたもの。劉暁波の妻・劉霞が許諾した唯一の劉暁波の伝記である。この伝記によって、劉暁波の生涯、思想、創作のすべてを、中国人を含む全世界の読者に伝えたい。このノーベル平和賞受賞者について、もっと深く知ってもらいたい。また同書出版を契機として、人々に劉暁波と劉霞について関心を持つようあらゆる機会を通じて呼びかけていきたい。彼らが自由になるために、だ。
そして、半年以内に『冷血暴君・胡錦濤』を出版する。同書は「中国のムービースター・温家宝」の姉妹作となるだろう。歴史の表舞台から下りる胡錦濤への「弔辞」である。その内容は胡錦濤政権に対する分析であり、調和社会、大国台頭、中国モデル、治安維持など、胡錦濤時代の重要な特徴に対する分析と論評となる。国内外の読者及び国際社会に対して、中国の経済成長の影にある専制的暴虐、腐敗の横行、人権の悪化、環境破壊、道徳の崩壊など、多くの真相を伝え、胡錦濤と温家宝が許されざるべき歴史の罪人であることを明らかにする。
出国後、中国国内の友人たちは私の選択に同情と理解を示してくれた。そして激励し、期待してくれた。本当に感動し、励まされた。自由世界の中、私はより多くの情報に触れることができるようになる。これによって私の作品と思考は退歩することがないのはもちろん、前進し向上できるはずだ。皆さんの期待に応える作品を書き続けられると確信している。
また、より広い国際社会の舞台に立つことで、中国の民主と自由のために声をあげることができるようになるだろう。とりわけ、自由を奪われた人々の境遇に注目するよう、国際社会に呼びかけていく。その中には、劉暁波、劉霞、陳光誠、高智晟、胡佳、範亜峰などの人々から、劉賢斌、陳衛、陳西、楊天水などあまり世に知られていない人まで含まれる。私はすでに得難い自由と安全とを獲得したが、依然として自由も安全もない同胞のために戦い声を上げることは、回避できない責任と使命である。縛られた者とともにあれ、悲しめる者とともにあれ。これがキリスト教の教えでもある。
私は本当の愛国者である。シェイクスピアのマクベスにこんな台詞がある。「我らの国は重いくびきの下で沈みつつある。泣き叫び、血を流している。毎日、彼女の傷の上に新しい傷ができる」。私はこの傷の痛みを憂い悲しむ。共産党の暴政を暴露し批判することが我が生涯の事業である。中国の財産を盗み略奪し、中国人民を奴隷とし痛めつける政府が崩壊しない限り、私の真相追求と批判が終わることはない。
「胡錦濤・温家宝体制に誕生して以来」
->「胡錦濤・温家宝体制が誕生して以来」
「一人の作家として、言論と出版の自由は最も基本的な権利であり、またキリスト一人のキリスト教徒として信仰の自由は不可欠なものである。」
-> 「一人の作家として、言論と出版の自由は最も基本的な権利であり、また一人のキリスト教徒として信仰の自由は不可欠なものである。」
「前進をけいれんさせたので」->「全身をけいれんさせたので」
「さまなければ助からないだろう」->「さもなければ助からないだろう」
でしょうか。
あと表現の統一を考えるのであれば、「張と名のる科長」->「張と名乗る科長」とした方がよい部分もあります。
それにしてもこの声明が発表されてから2ヶ月以上が経つのに、「劉暁波伝(刘晓波传)」の中国語版(中文版)が出版されていないようなのが気になります。
(Googleの画像検索を使っても、それらしきものは見つかりません。)