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中国の少数民族擁護政策を転換せよ=中国的「多文化主義」批判論文を読む

2012年02月29日

2012年2月14日、学習時報に掲載された中国共産党中央統一戦線工作部の朱維群・常務副部長の論文「現在の民族分野に関する何点かの思考」が注目を集めている。


中华世纪坛搞咩?
中华世纪坛搞咩? / ANTHONY

■朱維群が唱える中国民族政策の転換


朱維群は1947年生まれ。 人民日報社記者を経て、1991年に中国共産党中央弁公庁に転任。1998年から副部長、2006年から常務副部長(閣僚級)の地位にある。

昨年12月には「一部党員は事実上、宗教の信者となっている」との論文を発表。たとえ回族など宗教と不可分の少数民族であろうとも共産党員である以上は信仰は許さない、一般市民とつきあう時は宗教のまねごとをせよ、との内容で話題となった。
(関連記事:共産党員は宗教を捨てよ=たとえチベット族、ムスリムであろうとも―中国(水彩画)


■中国の少数民族政策

今回の論文「現在の民族分野に関する何点かの思考」はチベット問題、ウイグル問題を念頭に置いたもので、現在の漢民族文化の礼賛や少数民族文化擁護が、民族の境界を強化しかねないと懸念。漢民族の「おれたちは龍の後継者、炎帝黄帝の子孫」といった主張をいましめたり、あるいは身分証の民族欄を廃止するなどの改革を訴える内容となっている。

中国の少数民族文化擁護なんてあるの?!と疑問に思う方もいるかもしれない。独自のチベット文化を保持を唱えて焼身抗議を続けるチベット人たちを知っていれば、その疑問も当然というべきであろう。だが、一方で中国は「中国独自の少数民族擁護」政策を採り続けていることもまた事実である。

例えばチベット族であったとしても、「農奴制チベットから中国共産党が救済してくれた」という神話を奉じるかぎりにおいては、チベット族という身分はむしろ守られ、擁護される対象となる。


■中国的「文化多元主義」批判

この朱の論文は、そうした少数民族擁護政策の転換を提起するものである。少数民族擁護ではなく、貧困地域擁護へと転換することで、民族的な要素を薄めていき、最終的に全中国人を「中華民族」へと統合する方向へと舵を切るべきだとの主張がすけてみえる。これは従来の民族政策の大方向に合致するものであるが、個別具体的な民族擁護政策の転換を図る主張と理解するべきだろう。

その意味で朱の論文は、現代中国における民族政策という理解からみても興味深いものではあるが、個人的には世界的な「文化多元主義」批判の中国的実例としても考えるべきではないかと考える。個々の文化を尊重するという意味で、文化多元主義はなにやらすばらしいもののように思えるが、一方で個々の民族、個々の文化を固定的なものとしてとらえ、各個人をその固定的な文化にあてはめる「固い枠」として文化多元主義を批判する声も少なくない。

また欧州における移民政策では、文化多元主義の尊重が移民の現地社会への融和を妨げる要因になったのではとの批判も聞かれる。朱論文後半ではチベット人、ウイグル人など西部少数民族の東部沿海地域への労務輸出を積極的なものとしてとらえつつも、東部に民族コミュニティを作らせない(ヨーロッパにおけるトルコ・コミュニティを想起すればわかりやすいだろうか)ことを主眼にしている。

中国という、国としてとらえるにはあまりにも大きすぎる単位の中で、欧州の移民問題と同様の「移民と融合」「文化多元主義批判」の一環として考えるという意味で、朱論文はきわめて興味深いケースと言えるのではないだろうか。もちろん、一党独裁の中国共産党統治を前提とし、各少数民族が民族政策の変更に参与する可能性が当初から検討されていないという意味で、きわめて「中国的」である点は見過ごしてはならないが。


■現在の民族分野に関する何点かの思考

現在の民族分野に関する何点かの思考
学習時報、2012年2月14日

現在、中国の民族、宗教政策は全般的に見れば良好な状態にある。しかし問題も少なくない。一部の問題は改革開放以来の深刻な社会変化がもたらしたもので、人民内部の矛盾に属するもの。教育、管理、誘導分野に属する問題である。また別の問題は西側敵対勢力が統一された、豊かな中国が現在の世界に台頭することを望まず、民族・宗教問題を通じて中国に浸透し、転覆を狙って起こしたものである。これもまた中国の矛盾に根ざしたものであり、問題に対応しなければならない。

民族地区の発展加速と反分裂闘争の関係に関して

少数民族の経済成長、少数民族市民の生活改善のいち早い推進は、我々の目標であると同時に反分裂闘争における最も重要な物質的基盤である。しかし明確にしておくべきは、社会経済の発展はそのまま団結、安定を意味するわけではないという点だ。発展によって反分裂主義の問題が自然と解消されるわけではない。

この問題において旧ソ連とユーゴスラヴィアの教訓はきわめて大きい。両国はともに発展が遅れた民族の支援に少なからぬ力を注いできたが、政治的方向性の誤りから失敗に終わった。旧ソ連は共和国制度を採用していたが、憲法では各共和国が連邦からの離脱を「自決」する権利を定めていた。もともとは規約にあるだけの存在だったはずだが、よもや数十年後に現実のものとなるとは思わなかっただろう。

1991年、サッチャー元英首相は旧ソ連の瓦解について次のように語っている。「我々の政策のもう一つ重要な点は、ソ連憲法の不備をつくことだった。ソ連憲法は共和国が簡単に連邦を離脱することを許している。共産党及び強力な政府機関の凝集力によって、この権利を実行することは長期間にわたり困難ではあったが、憲法の不備が我々の政策に未来の可能性を残したことは事実だ」、と。

ユーゴスラヴィアも各共和国、自治省の自治権力を絶対化していた。各共和国、自治省にはその民族の幹部しか採用されなかったほか、中央政府も各民族の「交代統治」によって運営されていた。もともとは異なる民族を結集させるためだったが、予想外だったのはこれらの施策によって民族の境界がより鮮明になり、政治化されたことだ。制度設計者が希望したように民族間の矛盾や問題が消えることはなく、むしろ深まっていき、最終的には国家解体の重要な要因となった。

我々は民族地区の社会経済の発展を支持すると同時に、我々の制度設計をより中華民族の凝集力強化に有利な方向へと導かなければならない。各民族幹部、市民に対する思想政治教育を進め、発展過程において出現する民族関係に影響を与える各種矛盾と問題を解消しなければならない。決して手を緩めることなく、国内外の敵対勢力による分裂活動を治めなければならないのだ。

民族地区の発展過程を支持するのと同時に、民族地区と他地域のヒト、モノ、カネ、情報、そして幹部の交流を促進し、各民族の団結、交融を進め、国家統一と中央の権威確立を強固なものとしなければならない。言い換えるならば、民族地区のあらゆる経済投入には、団結促進、安定維持、国家統一強化の意義が必要であり、経済のみならず政治的な効果をも検討する必要がある。

この30年以上続いている社会主義市場経済の発展は、中国経済分野の各種生産要素の地域間流動を加速させている。この流動は規模においてもスピードにおいても空前のものだ。この潮流は各民族の交流、交融をさらに容易なものとし、各民族の関係をさらに深いものとしている。例を挙げれば、各民族の人々はより広い範囲で雑居するようになっている。少数民族市民もより積極的に国家の標準を学ぶようになった。

中国の政策動向はこの潮流に対応し、そして深めるものでなければならない。この潮流を逆転させてはならないのだ。「3つの離れられない」(三个离不开。「漢族は少数民族から離れられない」「少数民族は漢族から離れられない」「各少数民族は相互に離れられない」)思想は願望や口先だけのものであってはならず、現実的な経済、政治、文化関係でなければならない。

現在の中国の民族分布の現実から出発し、国は少数民族地区への支持において、民族要素と地域要素の検討をなお相当長期間において併存させる必要がある。しかし、民族雑居の進展、少数民族の生活と文化水準の向上に伴い、地域要素の強調へと誘導しなければならない。

つまり、経済的支持は自然環境の厳しさ、市民生活の貧困など地域的要素を基準とする方向に向かうべきである。とりわけ貧困地区の強調は現地で生活するすべての民族の人々の支持を得ることになるだろう。「西部大開発」「興辺富民計画」(辺境建設計画)はある特定の民族に対する支持を過度に打ち出したものではない。むしろ地域要素を主眼としたものである。国家の支持の大半はいまだに遅れた少数民族の上に注がれているが、しかしその社会的・政治的誘導機能は前述のそれとは異なるものとなっている。


民族意識と民族発展の傾向に関する問題

民族意識は客観的に存在する事物である。各民族には民族意識が存在する。民族意識が存在するかぎり、民族が消失することはない。これは中華民族という大概念の下にある各民族の民族意識を指している。民族意識には積極的な働きもあるが、一方で消極的な側面もある。カギは教育と誘導である。積極的な民族意識とは民族の自尊心であり、自立自強の精神である。民族文化を尊重し発展させることで、各民族の中華民族大家庭に対する貢献を誇りとして、他の民族から学ぶことを望む。こうした民族意識は中華民族意識と一致するものだろう。

一方で、消極的な民族意識とは多民族を馬鹿にし、尊重せず、侮るもの。中華民族という枠組みとは異なる形で歴史と文化を語ろうとするものとなる。この種の民族意識は狭隘なものであり、中華民族意識に背くものである。

我々はある特定の民族の意識が消極的であり、分裂を目指すものであり、消滅させるべきものだと単純に断定してはならない。そうした手法は容易に民族の対立感情を呼び起こす。同時にどのような民族意識も国家意識、中華民族意識を超越するものであってはならない。民族の団結にとって不利益であり、分裂主義思想の温床となるからだ。

我々の教育・啓蒙活動は全般的にみれば、各民族が共同で祖国大家庭を築くことを主に説くべきであり、「あなたの中に私がいる、私の中にあなたがいる」ことを説くものでなければならない。近代において帝国主義の侵略と戦う中、各民族が共同で祖国の統一を守ったこと、中国の特色ある社会主義建設において各民族の利益が共同で一致していることを主に説くべきである。

これにより各民族の人々が偉大な祖国、中華民族、中華文化、中国の特色ある社会主義建設の道への承認を深めることにつながる。現在、我々の教育と行政は意識的、無意識的に国家観念と中華民族への承認を弱める方向にある。例えば、ある学校では入学後狭隘な民族意識が激化している。民族要素関連の事件が発生するたびにこれらの学校は問題予防の重点とならざるをえない。これは考えなければならない問題だろう。

また、分裂主義分子=少数民族ととらえる問題性についても触れておきたい。海外の動乱分子と言えば、「法輪功」「台湾独立」分子などがいるが、彼らの大半は漢族ではないか。現在の海外動乱分子には一つの傾向があり、ダライ・ラマ、ラビア・カーディルの下に身を寄せ、口を糊しているという点にある。狭隘な民族意識を防止するというのはなにも少数民族の話にとどまらない。漢族もまた、やれ「龍の後継者」だ、「炎帝黄帝の子孫」だなどと言いたがるが、非科学的である。近年、中国東部、西部の政府サービス窓口がチベットや新疆の客人に対して、「特別待遇」しているのは民族感情を傷つけるものであろう。漢民族は人口最多の民族であるがゆえに、分裂主義分子と戦い、大民族主義を抑止する主要な役割を担っている。

民族発展の潮流について触れた以上、民族の交融、融合の問題に触れないわけにはいかない。学術的には議論が続いている問題であり、また民族活動分野でも比較的敏感な話題として、「融合」については通常触れられることはない。スターリン曰く、共産主義社会の到来は各民族の民族言語消失と全人類の共通言語の形成を意味する。民族差別の消失と民族融合の実現の重要なメルクマールとなる。

一方で、中国の一部の学者は歴史的に見て、2つ以上の民族が相互に接近し影響し合えば、最終的に一つの民族になる現象があると指摘する。これは「民族融合」と呼ぶにふさわしい。思うにこの両者の見方はともに成立しうるものであろう。前者は人類社会・民族の最終的融合であり、後者は現実世界における具体的な民族融合について説いたものである。

もし現時点でスターリンの言う融合を実現しようとするならば、それは間違いだ。また後者の融合も許されるものではなく、不適切だ。この問題については1957年に周恩来同志が重要な論述を行っている。彼はより敏感な言葉である「同化」という単語を使った。「もし同化がある民族が別の民族を暴力的に滅ぼすことであるならば、それは反動である。もし同化が各民族が自然に融合して繁栄に向かうのであれば、進歩である。漢族が他の民族を同化するならば、他の民族もまた漢族を同化するのである。回族、満州族はそうであり、またその他の民族もそうである」、と。

中国史上、一部の民族は融合を続け、新たな民族が生まれ続けてきた。これは普遍的であり、ありふれた現象であった。司馬遷の『史記』から、歴代王朝の社会・政治の舞台において民族の構造は完全に一様ではなかった。もし北魏・孝文帝が主体的に自身が所属する鮮卑族と中原民族の同化を図らなければ、後の隋の統一も唐朝の繁栄もなかったであろう。中国史はまったく変わったものとなり、あるいは未だに「五胡」の時代にあったかもしれない。

社会主義の初級段階は各民族の共同発展、繁栄の段階である。我々は行政手段を用いて、民族融合を強制することはできない。中国の民族活動史を振り返れば、この問題については重要な教訓がある。1958年、「共産主義への突入」をスローガンに「民族融合ブーム」が吹き荒れた。各民族の特徴や差別を完全に無視して、漢族地域のやりかたを強引に適用したのだ。民族自治地方は改変され、合併された。一部では強引に少数民族の風俗、習慣を改変させられたこともあり、民族関係は大きな損害を受けた。

しかし行政手段によって強制的に(民族融合を)推進してはならないということは、なにも無作為でいいということではない。誘導や促進の責任を放棄してよいわけではないのだ。ましてや政府権力を用いして、融合を阻止し、民族の差異を固定化するようなことはもってのほかだ。自覚的、自発的、自然的という基礎の上の融合は許されるべきである。

融合、交融は「漢化」ではない。各民族の優位点、長所をみなで共有し、各民族の一致を深めようということにほかならない。差異を尊重し、多様性を包摂し、交融を促進することが民族行政の基本的動向である。私は個人的には身分証の民族欄を削除するべきと考える。民族区域・自治地域、あるいは「民族自治市」をこれ以上、増やすべきではない。各民族の学生の同一学校への進学を進めるべきだ。

少数民族の発展、進歩にとって有利なように、そして中華民族の一致性をさらに深めるために、国家標準語の普及を速やかに進めるべきであろう。2000年の全国人民代表大会常務委員会第18回会議では『中華人民共和国通用言語文字法』が可決された。「国は標準語を推進し、規範的な漢字を普及させるべし」「国民は国家通用言語と文字を学習し使用する権利がある」と定められたのだ。

同時に「各民族は独自の言語、文字を使い、発展させる自由を持つ」とも定められた。社会の一部の人々の反対により標準語の普及をためらい、動揺するようなことがあってはならない。私は多くの少数民族地域を訪問してきたが、少数民族の学生、保護者が(標準語普及政策に)反対するような事態はないと信ずる。もちろん実行にあたっては周到に検討する必要がある。例えば、少数民族の言葉を教える教員の仕事を保障するといったことは必要だろう。


都市の少数民族流動人口に関する問題

中国の社会経済の発展と都市化の進展の加速に伴い、各民族の人口流動もまた頻繁なものとなっている。特に西部少数民族地区人口の東部沿海地区への流動が加速している。少数民族人口流動の潮流は肯定するべきものである。それは東部に動力をもたらし、西部に文化をもたらし、さらに西部に富と市場経済に関する種々の観念をもたらすものである。各民族の相互学習、理解の機会を増やすものとなろう。この過程においては一部社会問題の発生はまぬがれられない。例えば、東部にはおいては民族要素を伴う矛盾や紛争をもたらし、都市管理、民俗宗教行政の難易度を増すことになる。あるいは一部の原理主義的な思想、勢力が頭部に浸透する機会を与えることになるかもしれない。

だが私は思うに、これは行政管理の強化で対応する問題であり、少数民族の人口流動という潮流そのものを疑うべき話ではない。人口輸出地の政府が出稼ぎ労働者に対する研修や調停サービスを強化し、必要ならば受け入れ地の政府と協調する作業が必要となろう。また受け入れ地の政府もまた就業、子どもの就学、医療保障、法律援助などの分野で流入人口の市民待遇を実現し、彼らの合法的権益と要求を保護しなければならない。そして同時に法律を強化し、政策的な啓蒙教育と法に基づいた管理を徹底する。決して消極的に対応し、あるがままに任せてはならない。違法行為に対して「問題さえ収まればそれでいい」という態度やや、民族という身分を盾にして法律の実行を回避するようなことがあってはならない。

各地の民族の団結、進歩教育活動の展開は彼ら市民の平等の地位と合法的な権益を保障するべきものであるべきであり、彼らの現実的な苦境を救うものであるべきだ。社会の中から一部の人々を区別し、民族的な身分をもってして、超市民待遇を与えるべきではない。

彼ら(少数民族)の社会活動を都市にある既存のサークル、コミュニティに引き入れることが必要で、体制外的な民族村、民族コミュニティ、民族団体の形成を防がなければならない。


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 コメント一覧 (3)

    • 1. 天天
    • 2012年03月01日 06:39
    • 長文翻訳ありがとうございます。

      文章を読みながら、
      ・シリアに対する安保理決議に中国が拒否権を行使したこと
      ・国家標準語の強調は、広東語対策の意味もあるのだろうか
      ということを考えていました。

      そして今回文章を読みながら気付いた点は、
      「半分裂」->「反分裂」
      「改称しなければならない」->「解消しなければならない」
      「話題でとして」->「話題として」
      「用いして」->「用いて」
      です。

      あと自信がないのですが、
      「貢献を誇り年」->「貢献を誇り」なのかなと思っています。
    • 2. uralungta
    • 2012年03月01日 14:36
    • あと

      中国市場→中国史上
      身分を縦にして→身分を盾にして

      ですかね
    • 3. Chinanews
    • 2012年03月01日 14:48
    • > 天天さん、uralungtaさん
      ご指摘ありがとうございました。酔っぱらい翻訳よくないと悟った次第です……。

      天天さんご指摘の方言の問題は朱副部長も念頭に置いているように思います。少数民族対策ではなく、全国民への標準語普及という形で、民族要素を抜きたいという話じゃないか、と。

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