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公共心を食い物にする知識人、人気ブロガーを信じられるのか?炎上大国・中国からの提言

2012年04月21日

政府の不正を批判し、社会の不公平を叩き、人々の愚かさを嘆く「良識ある知識人」。ちょっと前まで中国ではカッコイイ存在だったはずなのだが、気づけばあざけりの対象になっているという。人気作家・韓寒のブログエントリー「今すぐ「クソッタレ公知」になろう」がこの問題を取り上げている。


network
network / sjcockell

■公共知識人の失墜

「公知」(公共知識分子)とは、公共事務=社会問題に携わる知識人、つまり実践する知識人というぐらいの意味になる。もちろんもともとはそんなマイナスイメージの言葉ではないのだが、気づけばえらい悪いイメージになっていたようだ。

公知

公知とは公共知識分子の略語であるが、正確な定義は学術的な背景と専門的素養を持つ知識人、社会に進言し公共事務に参与する行動者、批判精神を備えた道義の体現者を指す。

しかし現実には、博学で公正なふりをしながら、実は考えが一貫せず、自分を人よりも高い存在だと見なし、天下を評論することを役割と考え、政府や市民の問題が多いと言い立て、自分には啓蒙する責任があると思い込み、飽きもせずに人の批判を続ける文化人たちを指す。特にネットやマイクロブログにおいて「公知」が使われる場合、あざけりの意味を持つことが多い。
 
百度百科
*太字修飾はChinanews 


■知識人の失墜

ネットの普及に伴い、「公知」、あるいは「意見領袖」(オピニオンリーダー、公共知識分子と異なり、学歴や専門知識がなくとも、社会問題について積極的に発言する人気ネット民も含まれる)の重要性ってむしろ高まっていたんじゃないの?というのが私の理解。

例えば2009年の記事「ネットが生み出す「中国式民主主義」」(日経ビジネスオンライン)、2010年の記事「ネット用語から読み解く中国 (3)「新意見階層」」「ネット用語から読み解く中国 (18)「公共知識人」」(東方書店)などはそういったイメージで伝えている。

ところがこの2年間で大きな変化があったようだ。「意見領袖」はまだしも「公知」の評価暴落が激しい。振り返ってみれば、ネットの普及に伴い「草根」(草の根)信仰が広がり、知識人という権威はむしろマイナスに作用した可能性もある。


■みんな永遠に悪を競っているのだ、メビウスの輪の上で

で、そろそろ韓寒のブログエントリー紹介……と行きたいところだが、その前に韓寒がエントリーを書くきっかけになったというやりとりをご紹介。

熊培雲(評論家)
中国語は新たな言葉と下品な言葉によって支配されている。どんな美しいものも徹底的に打ちのめされてしまう。私が尊重している知識分子やメディアのコラムニストたちも「公知」という言葉で反対者に嘲られている。この自ら堕落を選び善を破壊する社会はまたしても自らの手で長城を破壊している。時々、この国は文化的な希望がないのではと思う。なにかを作ればなにかを壊す。みんな永遠に悪を競っているのだ。メビウスの輪の上で。

慕容雪村(作家)
1949年以後、いや延安時代からというもの、「知識分子」「文人」は軽薄で、浅薄で、容易に間違いを犯す者の代名詞だった。労働者、農民、兵士の党性(共産党員としての自覚)や覚悟には遠く及ばない存在とされた。それは簡単な道理だ。愚民政権は考える頭を何よりも恐れるからだ。この数十年の文化政策を一言で表現するならば、思想と文化人の抑圧だった。現在、公知に汚名が着せられている現状もその政策の延長でしかない。


■今すぐ「クソッタレ公知」になろう

今すぐ「クソッタレ公知」になろう
韓寒ブログ、2012年4月20日

■「公知」から「草根」、「意見領袖」、そして「公民」へ

「公知」(公共知識分子の略。公共知識人)って言葉はどんどん悪い意味にされている。つられて「知識分子」という名詞までマイナス評価になっているほど。「公知」が汚名を着せられたのはこの2年ほどのことだ。それ以前は多くの雑誌が「今年の公知」を選出していたよね。ぼくも選出されたことがある。だがいつからか、「公知」は相手を罵る言葉になった。

公知同士で議論している時のこと。相手を「おまえは公知だ」と言い立てれば、もう一方はもはやなすすべなく破れるしかない。「あいつはBMWに乗ってたぜ」とけなすよりもよっぽど有効だ。

で、それからなんだけど、皆の衆はかしこくも「草の根」へと鞍替えしてしまった。でも、草の根VS草の根の議論は、「屁民」(市民をくさして言う言葉)同士のケンカと一緒でどっちもぼろぼろになるだけ。すぐに注目されなくなった。

そうしたらまたすぐに新しい言葉が登場したというわけ。それが「意見領袖」(オピニオンリーダー)。すると、あっという間にネットは意見領袖たちであふれかえった。公衆事件(社会の注目を集める重大事件)が起きるたびオピニオンリーダーは列をなして発言しまくっていた。こんなんなら易建聯(中国人NBAプレーヤー)でも見ていたほうがましだね。

でさ、ついに最終兵器が登場した。それが「公民」ってやつ。「公共知識分子」をパンピー化したやつでございます。この言葉は安全だし、そう簡単にはマイナスのイメージをくっつけられない。それでも最近じゃ「公民」は「功名」でどっちも狼やで!というやつも出てきたけどね。だからさ、この人々をどう呼べばいいか、みんなよく分からないわけ。
(公民と功名は中国語ではいずれもGongmingという発音)


■「公知」が嫌われる理由

まあ、「公知」にマイナスイメージがついたのはね、「公知」自身の責任もあるよ。だいたい知識人には悪い癖があるからね。時代遅れのやつ、八方美人のやつ、助平なやつ、計画性のないやつ、投機的なやつ、うるさいやつ、そやなやつ、ばかっぽいやつ、なんだか偉そうにしているやつ、いい加減に放言するやつ、派閥作りに熱心なやつ、ポーズをとるのに必至なやつ、人格破綻しているやつ、言行不一致のやつ、大げさなことを言いたがるやつ、人を攻撃するのに必死のやつ……。

それにさ、「公知」はずっと発言しているから、欠点もどんどんばれていくじゃん。でどんどん嫌われていくわけ。ただ考えてみると、どんな業界にいるやつもみんな似たようなものかもね。例えばさ、芸能界は男女の関係が乱れすぎているとか文句を言っているでしょ?でも自分の職場をよく見てみると、似たようなもの(芸能界並みに乱れている)だったりするわけで。

「公知」や「意見領袖」が大声でなにか言っているとする。最初はみんななんか気持ちいい。自分の本音を代弁してもらえたような気がしてね。でもさ、そのうち「なにをおんなじ事を繰り返しているんだ」ってむかついてくるわけ。もちろんそれで「公知」を恨むってわけじゃないよ。だって政府がおんなじ間違いを繰り返しているわけだから。


■実践的「公知」批判

でも誰かが突然叫ぶんだ。「公知」は有名になったぞ、金を稼いでいるぞ。「公知」が騒いでもなにもいいことはなかった。「公知」は政治や感情を消費しているだけだったんだ。あいつは「クソッタレ公知」だ!ってね。

ぼくの友人にね、文学者出身の「公知」が社会批判するのを嫌いな人がいてさ。パフォーマンスだし、批判ばっかりだし、しかも終わりがないってね。比べると、元グーグルの李開復とか不動産会社社長の冉潘石とかビジネス界出身者のほうがいいって言うの。で、毎日リツイートするようになった。友人曰く、文章力も文学者に負けていないし、現実社会の対処についてもっとよく知っている、発言を聞いても文学者よりいいって。一番大事なのはビジネス界の人はもう金持ちだから、(金儲けのために)ショーをする必要がないってこと。

でもね、ある時、別の友人と議論になった。金をもうけたら次は名誉が欲しくなるのが人間。思うにビジネス界出身者のやつらの動機は不純だぞ、あいつらも「クソッタレ公知」の一種だって批判された。友人は一応言い返していたけど、翌日から数日間というもの、ジョークしかリツイートしなくなったよ。

別の友達は姚晨(女優。微博も人気で社会問題に関するつぶやきも多い)が好き。現実に関心を持つ有名人は芸能界には多くないし、社会正義を求める発言が多いからってね。でも別の人は「姚晨なんかどうでもいい。どうせたんなる売名行為。他の芸能人と違うっていっても結局は利益目的。結局は「クソッタレ公知」の一種だって批判していた。

またまた別の友人の話。「某某が好き、某某がすごい」と言うと、たんに演じているだけ。迫害されてる感が強ければ強いだけ地位も高くなるし収入も増えるんだからとばっさり切り捨てられていた。こりゃもう「公知」よりもさらにワンランク上の境地だよね。たんんに政治を消費しているだけ。「クソッタレ公知2.0」っていう存在だね。


■ボクは「クソッタレ公知3.0」だ

この話をした以上、もちろん自分自身の話もしないと。中学生時代に文章を書くようになったんだけど、好きだったのはあれを批評したりこれを批判したりっていうたぐいの文章。特になにかを考えてというわけじゃない。たんに中華民国時期の作家の作品で読書に目覚めたからってだけなんだ。無意識のうちに文章を書くってのは批判することだと思っていた。

同級生にも文章を書くのが好きな子はいた。ただ読書に目覚めるきっかけになった作品も違うし、性格も違う。だから現実に関心にある人や星座に関心がある人とかって違いができるのはよくわかるよ。

でさ、ボクは最初の小説がよく売れたけど、でも本当に有名になったのはここ数年にこのエントリーみたいな雑文を書くようになってからだ。(政府批判的な文章を書いても)まだ作品を発表し続けられて、しかもいい生活が送れている。だから五毛(世論操作のネット工作員)みたいなものじゃないかって疑われている。つまり「クソッタレ公知3.0」ってわけだ。


■権威の失墜とあらさがし

さて、ここまで見てきて、ある心理がわかったよ。のたれ死んでいる人間でなければ、つまりそこそこ生活できている人に対しては悪意を持っていろいろ詮索してやろうっていう心理だ。

革新的な人に対してはしょせんパフォーマンスだろと批判し、保守的だったら五毛扱いする。どちらにせよ、政治や公共事件を消費している輩だぞってね。しかもちょっと意見が違えば、「公知」同士でお互いのあら探し。どっちもバカだなという印象しか観衆には残らない。一般の人々の文章力もどんどん向上しているしね。こうしてついに「公知」は称賛の言葉から相手を批判する言葉になってしまったんだ。

ここまでボクもようやく理解できたよ。ボク自身が否定しようが肯定しようが、あるいは自分に(「公知」以外の)別の特別な肩書きをつけようが、ボクは「クソッタレ公知」から逃れられないとね。

「公知」「知識分子」「意見領袖」「公民」、呼び方はなんだっていいじゃないか。自分一人で声をあげればいい。そうすれば名声は君のものだ。肩書きがどうだろうと関係ないじゃないか。そう言う人もいる。

でもボクは違うと思う。こんな風に例えられるかもしれない。ある野生のツル(原文は「閑雲野鶴」。しがらみのない自由な人を指す言葉でもある)。そのツルは自分勝手に飛び回るのは嫌いだった。でもある時、突然、自分の群れが批判された。ツルじゃないよ、カモだろって言われたんだ。当然、こんな事態に陥ったのは、ツルの群れの中で「あいつはカモだろ」って言い合いしていたことも大きな要因だ。でも野次馬のキジやら責任者のイノシシやらがこの名前の変更を嬉しそうに見ていたことも要因さ(キジは一般市民・一般ネット民、イノシシは政府の比喩)。


■消費、消費、消費

「知識分子」と「公知」、この2つの言葉はいつの時代であってもプラスの意味の言葉であるべきだと思う。大事にするべきだと思う。だから、このエントリーのタイトルである「クソッタレ公知」(臭公知)っていう言葉も良くないね。逆に「意見領袖」はプラスの言葉とは限らない。だって「領袖」ってついている以上、きっと最終的には意見の違う者を抹殺するだろうからね。その点、「分子」は物質の組成の基本単位ってだけなわけだから。

そうだ。ボクは「公知」だ。そしてボクは政治を、時事問題、ホットトピックを消費している。ボクは公権力の既得利益者でもある。でさ、みんなもボクを消費するのも当然のことだよ。チップもいらないさ。

公権力と政治がすべての人によって安全に消費されるっていうのはいいことじゃないかな。みんなが今の社会に関心を持つ。社会の不公正を批判する。毒カプセルを批判するし、汚職官僚がおさらばしたらお祝いする。それがポーズであっても、あるいはファンを騙して、媚びて、称賛を勝ち取ろうとする偽りであっても、それがどうしたっていうの。政府、公権力、政治を消費しなければ、そいつらは君のことを消滅させてしまうだろうから。


■君が消費しろ!君が「クソッタレ公知」になれ!

最後に。いろんな不公正があるけれども、誰も君の代わりに消費なんてしてくれない。すべては君自身がやらなきゃいけないんだ。インターネット(の普及)から始まって、みんなが参加するようになって、そしてかつてはみんなの代弁者だった著名な「公知」が次々と見捨てられていく。これは必然的な過程だ。

ただある人々(著名な公知)を見捨てるってことは、良い言葉を捨てるって意味じゃない。何日か前のことだけど、ボクの友人は食品安全について模範的「公知」的なつぶやきをマイクロブログに書き込んだ。1000回以上もリツイートされたんだって。友人は、あの(有名な)「公知」たちもこううまくは書けないだろうって喜んでいた。

これが社会変化の過程だ。ただこの過程において「公知」(という言葉)を捨てるべきじゃない。逆にみんなが「公知」になるよう励まし合うべきなんだ。

作家・慕容雪村のマイクロブログで夜遅くまで公共知識分子についての議論が続いていたんだけど、それを見て考えたことをまとめた。あ、それからブログとマイクロブログの長文つぶやきに最初にコメントしてくれた人には新刊『光明与磊落』のサイン付き特装版をプレゼントします。サービスだよ。)

*小見出しはChinanews。 


■韓寒とは

韓寒は中国の人気作家。レーサーとしても活動し、テレビCMにも出演する人気スターだ。昨年末、「民主と革命論争」を引き起こし話題となった。本サイトでも特集している。

今回の記事にもあるが、鋭い政府批判で人気を集めた韓寒が一転、「革命するには中国人の民度が足りない」という書き出しの記事を書き(真意はそこにはないが、最初でつまづいて後を読まない人が99%を占めた印象。日本語での紹介記事も同じ間違いを犯している)、猛烈なバッシングを受けた。

論考に対する批判だけではなく、「今までのコラムはゴーストライターが書いていたんじゃね?」という挙げ足取り、「最初から要らんかったんや!」という阪神ファンばりの手のひら返しで叩かれた。


■ソーシャルメディア時代の炎上をどう受け止めるか?炎上大国・中国の事例

なので今回のブログエントリーも、そうした「ビッグウェーブに乗って、手のひらを高速反転させる中国ネット世論への批判」なのかと思って読み始めたのだが、ちょっとひねっている。

時事問題、ホットトピックを超高速で「消費」することを否定せず、むしろもっとみんなで「消費」しようという主張。ダンス・ダンス・ダンスならぬ消費・消費・消費。で、権威を引きずり下ろしてみんなが「草の根」「公民」になるのではなく、みんながトピックを消費して放言することでみんなが「公知」になればいいじゃん、と唱えている。

正しいおっさんとして、思考が保守化しつつある私にはなかなか受け入れがたい主張だが、中国に興味がある人のみならず、「炎上トピックに便乗サーフィン(=消費)する人々」が相当数いる日本にとっても、ネット炎上大国・中国の議論は参考になるのではなかろうか。

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