■汪暉、重慶事件を語る■*当記事はブログ「梶ピエールの備忘録。」の2012年6月15日付記事、21日付記事を、許可を得て転載したものです。

■薄熙来事件を政争という視点のみでとらえるべきではない
岩波書店の月刊誌『世界』7月号に、北京の清華大学教授で新左派の代表的な論客、汪暉氏による「重慶事件――密室政治と新自由主義の再登場」 という論考が掲載されている。
中国の内外を問わず大きな衝撃を与えた事件に関する著名な知識人の発言であり、またその内容も色々な意味で興味深いものだった。論考の趣旨はおおむね以下の通りである。
1.今年二月に生じた王立軍の米国領事館駆け込み事件および薄熙来夫人である谷開来の英国人スキャンダルに端を発した一連の政治スキャンダルと、重慶モデルという「社会実験」の評価は、本来区別して論じるべき問題である。
2.重慶モデルという社会実験は農村都市化をめぐる「地方間競争」の一つのモデルであり、もちろんその方式には賛否両論あったものの、基本的にその成果は広く市民の評価に対しに開かれたものであった。それが今年の「両会」以来、「密室政治」のもとに葬り去られようとしているのは憂慮すべきことである。
3.重慶の社会実験を「密室政治」によって葬り去ろうとしているのは、天安門事件後の蠟小平による「南巡講話」で方向性が明らかになった新自由主義的な強権政治を徹底させようともくろむ温家宝、またそのブレーンたる呉敬蓀、張維迎などの右派経済学者達である。
4.現代の「密室政治」の一つの特徴は、メディアを使った意識的な情報操作という手法が積極的に用いられることである。重慶の事件では、薄熙来の失脚後ただちに彼を支持する左派サイト烏有之郷が閉鎖されると共にニューヨークタイムズなどの西側メディアあるいは南方系などの国内右派系メディア、への意図的な情報リーク、を通じてそのような情報操作が行われた。
5.温家宝による一連の「密室政治」の横行が意味するものは、その権威主義的な政治手法と一体となった、「中国の特色ある新自由主義」の完成にほかならない。それは、中国の政治経済体制を西側諸国のそれに近づけ、グローバル資本主義との一体化を促進するもので、それは世界銀行が政府系のシンクタンクと組んで行っている「政策提言」とも呼応するものである。しかしすでに時代遅れとなった新自由主義的改革の導入は国内格差を一層拡大させる一方で政治ニヒリズムを蔓延させ、中国社会により悲惨な状況をもたらすだろう。
……僕はかねがね、重慶の問題は党内の派閥抗争という政治的側面、新左派、自由主義に代表される政治思想の対立という側面、農村都市化という難事業をめぐる社会実験という社会経済的側面、が不可分に絡みついた、きわめて複雑な問題だと考えてきた。
一連の事件については最近『チャイナ・ナイン』を著した遠藤誉氏など、政権内部にパイプを持つウォッチャーによるかなり突っ込んだ分析も出てきてはいるが、あまりにも党内派閥という側面に偏った分析がなされ、農村の土地収用、社会保障改革、戸籍改革といった「重慶モデル」が一定の支持を受けた社会経済面での背景にまで踏み込んだ分析がほとんど出てこないことには苛立ちを感じていた。
その意味では、重慶における社会実験の評価を一連の政治スキャンダルとは別にきちんと評価すべきである、という汪氏の指摘には確かに頷けるところがある。また、薄熙来失脚劇の一連の経緯には不透明な部分があまり多く、「密室政治」によって決められている、という現政権への批判も的を射たものといえるだろう。
■重慶モデルは反・新自由主義か?
ただ、僕が汪氏の言説に共感できるのはそこまで。あとは、全ての元凶は「中国の新自由主義化」を企む温家宝およびその背後にいる国内外勢力にあるとする、あまりに党派的な意図が、華麗なレトリックの裏に透けて見え、かなり鼻白んだと言うのが正直なところ。以下、彼の論説に感じた違和感をいくつかの点にまとめておきたい。
まず第一に、社会経済的な面から重慶モデルを評価するのはいいとして、彼がその本質をつかんでいるとは思えない点だ。たとえば、汪氏は温家宝の進めようとしている(と彼が主張する)鉄道、医療、通信、エネルギーなどの分野における国有企業改革などの政策を「新自由主義的」と批判する。
しかし、彼の言う「新自由主義」の定義は何だろうか?そして「重慶モデル」は彼が考えるほど「反-新自由主義的」なものだろうか?僕の見るところ重慶における農村都市化の実験のポイントは「打黒」といわれる汚職一層キャンペーンに代表されるように「資本家の冨を強制的にとりあげ、貧者に再配分する」ところにあるのではない。それはあくまでも象徴的な意味しか持っていない。
学術書からtwitterでのつぶやきまで、これまで僕が様々なところで述べてきたように、近年の中国では「農民から安く土地を収用し、開発業者に高値で売り払う」ことによって、地方政府が巨額のレント収入を手にしてきた。そのレント収入を、他の地域のように地方政府が金儲けだけを考えた高級住宅や商業地の開発につぎ込むのではなく、土地を手放した農民にも一部(あくまでも一部)を還元しましょう、という姿勢を明確に掲げた点に重慶モデルの最大の特徴がある。
つまり重慶で行われた「再分配」の流れは、「富者の冨を貧者へ」というよりもむしろ「貧者の冨(土地)を政府が一旦とりあげ、一部を貧者へ戻す」というものであったのだ。
付け加えておくならば、このような重慶の改革の方向性は薄熙来が書記に就任する前の2007年6月に同市が「全国都市農村一体化総合改革試験区」に指定された頃からかなり明確だった。その意味で、重慶の「社会実験」は、土地市場に継続的に資本が流れ込み、価格が上昇しつづけるという資本主義的な基礎がなければ本来持続不可能なものだ。
汪氏も言及しているデイヴィッド・ハーヴェイが喝破したように、新自由主義が「国家が提供する制度的枠組みの下での資本の自己拡大運動」なのだとしたら、資本主義と国家介入の混合形態である重慶モデルだって典型的な新自由主義的政策にほかならない。
僕自身が理解しているところでは、重慶における「土地と戸籍の交換」を通じた一連の改革は、土地使用権の売却益という市場による変動要因が大きいものを財源としながら、毎年の事業支出の規模がそれとリンクするようになっておらず、かなり無理な点があったのは確かだ。
ただ、同様の改革をより市場メカニズムを取り入れる形で実施した成都市のケースはかなり成功しているようなので、改革の評価をおこなうには、両都市のより詳細な比較が必要だろう。また、農村コミュニティによる農地の処分権を強化する形で農民の土地に対する「財産権」を強化し、あとは市場メカニズムに従って土地の開発に伴うレントの配分を行う、という「広東モデル」も「重慶モデル」と同じように新自由主義的な農村-土地問題の解決に関する処方箋の一つである(村民自治を求める運動として有名になった烏坎村のケースもこのような土地開発のレントの分配を背景として起こった問題である)。
汪氏あるいは「烏有之郷」に集っていたような新左派知識人が、「広東モデル」は新自由主義的だが「重慶モデル」はそれに真っ向から対立するものだと考えているとしたら、その認識は根本から誤っていると言わなければならないだろう。
■密室政治批判という陰謀論
汪氏の論説に対する批判の二点目は、彼が温家宝による「密室政治」を攻撃するあまり、現代中国社会における様々な矛盾をことごとく温とそのブレーン、ならびに彼らが推し進めようとしている「新自由主義」政策に帰する、という一種の陰謀論になってしまっている点だ。
たとえば彼は、広東省に基盤を持つ南方系メディアを中心として「メディアの政党化」、「政治家のメディア化」が生じているとして、以下のような批判を行っている(『世界』7月号253ページ)。
第一級の党メディアの系統と第二級の党メディアの系統(たとえば南方系など)が緊密に連携をとって、民主、自由、開放の名の下に「真相政治」を弄んだ。それらの基調と温家宝の記者会見のレトリックは完全に一致するものであり、そこで「人民の目覚め」、「改革開放」、「政治民主」などの言葉が使われた。このような虚飾に満ちた言語が密室政治を通じて「真相」を操作するのである。
これでは、あたかも、南方系メディアは温家宝一派の情報操作の手段、第二の「党の舌」に成り下がっていると言わんばかりである。だが、それは本当なのか。南方系メディアの代表紙『南方都市報』は劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞した際に、空の椅子を並べた写真を一面に飾ったり、天安門事件の戦車で遊ぶ子供の絵を乗せたり、当局の規制ぎりぎりの「エッジボール」を投げかけてきたことで知られている。「第二級の党メディア」がどう考えても共産党内の支持を得られないような「危ない」記事を載せるものだろうか。それとも、これらの記事も温家宝が書かせたとでもいうのだろうか。
(関連リンク:「
抵抗する中国のメディア」梶ピエールの備忘録。、2010年12月19日)
■新左派にも成り立つ陰謀論
汪氏の論説がはらむ問題点の三つ目、そして最も深刻なそれは、自らを特権的な立場に置いたまま「敵」を批判するというスタイルになっているため、論難する対象にむけた批判が自らに対して向けられる可能性に対し無自覚であるか、あるいはわざと気がつかないふりをしている、という点である。要は、彼自身の言説に対しては常に「オマエモナー」というツッコミが成り立つ、ということに尽きる。
たとえば、彼はこんな物言いをしている(『世界』260ページ)。
周知の通り、「文革」は中国においてタブー視されている。徹底的に否定されると同時に、しかし公開的な研究が許されていない。政治公共領域において、これは分析できないもの、申し立てできないものである一方で、「敵」をやっつける口実にはされている。それはまるで呪文のようなもので、批判には使われるが、公開の議論には使われない。
確かにそうかも知れない。それでは、汪氏が温家宝やそのブレーン(?)たる呉敬璉のような経済学者を非難する際に持ち出す「新自由主義」についてはどうか。それがきちんと定義された分析可能なものであり、空疎な中味のない概念などではない、と言い切れるだろうか?
少なくとも僕には、それが彼らのような左派知識人にとって徹底的な否定の対象であり、論敵を非難する際の「呪文」のような役割を果たしている点では、温家宝による「文革」と似たようなものではないか、と思えてならない。
また、中国政治の専門家、佐々木智宏氏のブログによれば、薄熙来の失脚の後、新華社ならびに人民日報で「新自由主義批判」が繰り返されているという。これは佐々木氏も指摘しているように、温家宝にによる薄熙来の追求を明らかに「やり過ぎ」と考える勢力が党内に一定程度存在し、巻き返しを図っている、ということを示すものであろう。
(関連リンク:「
国有企業擁護は温家宝批判か(今日の『人民日報』-20120517)」「
新自由主義批判と国家資本主義への反論(今日の『人民日報』-20120517-2)」「
新自由主義批判は右派批判(今日の人民日報-20120607)」)
問題は、このような紛れもない「第一級の党メディア」による新自由主義批判の論調と、今回の汪氏の論説に見られる新左派系知識人のレトリックが完全に、とは言わないまでもかなりの程度一致をみせていることだ。汪氏は、このような現象を「第一級の党メディアとそれに近い知識人たちが緊密に連携をとって、「真相政治」を弄んでいる」と「宿敵」たる南方系メディアから批判されたら、どのように反論するつもりだろうか?
■多様な意見が成り立たない「単一権力社会」という中国の政治文化
……以上、いささか意地の悪い書き方をしてしまったかもしれない。ただ、僕がこういったことにこだわるのも、ここにこそ現代中国政治をめぐる深刻な問題が隠されている、と感じるからだ。確認しておきたいのは、汪氏のような左派知識人も温家宝も、表面的な言説の上では、政治の公開性を高めることにより、民衆による権力へのチェック機能が果たされることを理念として掲げているという点である。
そして、薄熙来のような独裁的・強権的な手法を用いる政治家が、その理念に真っ向から対立する者であることも、また自明であるはずだ。そうである以上、本来ならこの両者の間に何らかの協調が生まれ、協力して薄熙来的な強権政治を批判し、政治の公共性を高めた上で具体的な「社会実験」の方法について議論する、という方向に向かってもよかったはずである。
しかし、実際に温の行ったことは、「法治」を掲げつつ、刑事事件の被疑者であるわけでもない薄熙来を長期間にわたり拘束するという、およそ「法」を無視しているとしか思えない強権的な手法により排除することであった。
(関連リンク:丹藤佳紀「
中国共産党統治の根源を衝く“異議申し立て”―薄熙来事件の招来した女性教授の勇気ある公開状―」リベラル21、2012年5月9日)
一方の汪氏などの左派系知識人はと言えば、そのような温の強権政治を強く非難しながら、そもそもそれを引き起こした薄熙来の手法の強権性については、まるでそんなものはなかった、あるいはあったとしても「どこにでもみられること」として片付けようとしているように見える。
ここに鏡のようにくっきりと映し出されているのは、「政治」があまりにも肥大化した結果、本来、価値の多様性として認められるはずの意見の相違が、ことごとく「単一権力社会」における正統性争いに回収されてしまうという、近代以降の中国社会が歴史的に引きずってきた宿痾なのではないだろうか。
(関連リンク:福本勝清「
アジア的生産様式論争物語 入門編2単一権力社会と多元的権力の社会」21世紀中国総研、2007年9月15日)
さて、以上のような問題について詳細に論じる力量も時間も僕にはないが、最後に一言だけ記しておこう。汪氏のような左派系の知識人が良い意味での「左派」性を保ちながら言論活動を行っていくためには、今回の論考のように様々な社会矛盾の根源を、新自由主義という外部の思想に求めるのではなく、自らもどっぷりとつかった中国政治文化そのものに求め、それを「内破」させていく姿勢がどうしても必要になってくると思う。
(注記:彼の言説に対しこのような感想を抱いたのはこれが初めてではない。汪氏がチベット問題に関して、やはり問題の困難性を「オリエンタリズム」という外部の思想の存在に求めるあまり「出来事」への柔軟な感性を失っているのではないか、という批判は拙著『
「壁と卵」の現代中国論
』第10章で行っている。)
この点については、中国だけでなく、日本の政治状況についてもまさに同じことが当てはまると思うので、あえて強調しておきたい。
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