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2012年11月14日
■娘の焼身を語る父親
2012年11月7日に焼身し死亡したタムディン・ツォ(関連記事)。彼女はまだ23歳という若さ。7歳の息子を残しての死となった。
*弔問客用のテント。
遺族の元を多くの弔問客が訪れているが、下記に紹介するのは父親が弔問客に語ったものだ。
父親タムディン・キャプの話
娘は23歳だった。名前はタムディン・ツォという。娘には息子が1人いた、名前はニンジャン・ツェリンで7歳だ。娘は他の人たちと違い、普段からチベットの問題に関心が深く、心配していた。娘が自らを灯明として捧げたのは、チベットのためであり、決して夫婦仲とか家族仲が悪かったからというものではない。
娘がそのような事を考えるようになった直接の原因となったと思われる出来事があった。一ヶ月ほど前に私は娘と一緒にバイクに乗って、ドワ郷の街に行った。ちょうどその日、レゴン県の共産党書記である蒋樹成が来ていて、「ダライの写真を店で売ったり、家庭内に保持してはならない。それは違法行為である。分裂主義者を非難すべきである」等と書かれた張り紙が郷の庁舎の前に貼られ、またそのようなことを怒鳴りながら、街中を練り歩いていた。
それを見て娘は悲しそうな顔をして、私に何度も『お父さん、私たちチベット人は悲しいね。ダライ・ラマ法王のお写真も掲げちゃいけないなんて、全く自由がないね』と話した。家に帰った後も何度もそのようなことを言っていた。その日から娘は肉を食べることを止め、ニュンネ(断食の行)も何度も行った。自分は娘の身体のことを考えて、重ねてちゃんと食事を取るようにと言った。
焼身の数日前に娘は何度か『お父さん、レゴンのロンウォに行きたいんだけど』と言っていた。でも、私は家の仕事が沢山あるから行くなと言った。11月7日には娘は弟と一緒に家にいた。弟が家畜を見るために外に出た後、娘は家の掃除をして、法王の写真が掲げてある仏壇に供物を捧げ、何度も祈っていたようだった。その後、外にあったバイクからガソリンを抜き、そこで自らを灯明と化し供養した。
私の大事な1人娘だった。娘が生まれたときから、一度も叱ったことはない。婿が一緒にいたが、私は一度も干渉したことはない。だから、このような娘を突然こうして失ったことは、心臓を抜き取られたようなものだ。しかし、娘がそのような道を選んだのはチベット人みんなのため、ダライ・ラマとパンチェン・ラマをお迎えするためであるから、もう色々考えることは止め、娘の一生を美しかったと喜ぶようにしようと思う。
だから、あなた方も娘の望みが叶えられるように努めて頂きたいと願う。また、娘が将来、宗教と政治の自由を謳歌する吉祥なる雪山チベット国に、幸運で宝のような人間の身体を得て生まれ変わり、一切知者(ダライ・ラマ法王)とお会いすることができるようにと一緒に祈って頂きたい。
深い悲しみと憤りを覚えます。