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長征のルート沿いにチベット人の焼身抗議多発地帯がある=毛沢東の長征が残した傷跡(tonbani)

2013年01月20日

■長征と焼身■


■チベット人青年の焼身抗議と情報の錯綜

2013年1月18日、ンガバのキュンチュ県ダチェン郷で1人のチベット人青年が焼身した。一応、ドゥプチョク(ツェリン・プンツォク)という名前が伝えられているが、いまだに名前、年齢、焼身時の情報が錯綜したままである。

チベットでは一般に名前に関していれば、幼名、成名、略称(ニックネーム)、僧侶については法名、というように1人に何通りもの名前がある場合が多い。年齢についてもチベット人は一般に正確な年齢に注意を払うことが少なく、いい加減であることが多い。今回も28歳、27歳、21歳と情報が別れている。ちなみに地名の呼び名も複数のチベット名、漢語名と色々ある。

彼の焼身後の情報についてだが、昨日のVOTでは複数の情報提供者を紹介し、その内の1人は「彼はその場で死亡し、遺体はチベット人たちが当局に奪われるのを阻止し、家族の下に届けた」という。また、ある者は「当局に奪われたが、その時にはまだ彼は生きていた。ただ、目撃した人たちは彼は死亡したに違いないと思ってる」という。

当初の情報では「彼はその場で死亡し、遺体は当局に奪われた」というものだった。事件後現地の情報網は規制されたという。それでも何とか伝えられた情報であろうが、限られた通路での交信は困難で、確認・確定するのは難しいのであろう。


■長征と焼身

この焼身を伝えた北京在住のチベット人作家・ウーセルはそのブログの一節で、この地域の歴史的背景を紹介されている。そして、1934年から36年に掛けて行われた共産党紅軍の長征のルートと焼身者が多発している地域が重なっていると指摘している。

とにかく、この地域がその時期から中国共産党の横暴、虐殺の被害に遭って来たことは確かである。実際にはその後の1958年を中心にした大量虐殺、文革時の大飢餓や弾圧、1990年代終わりからの宗教・政治弾圧、2008年以降の弾圧強化等々が全て関係していると思われる。

ツェリン・プンツォク(ドゥプチョク)はアムドのカコック(རྐ་ཁོག་ キュンチュの別名 四川省阿坝州红原县)の遊牧民であった。

(中略)ここは純粋な遊牧地帯である。1960年に周恩来により、紅原県と改名された。中国共産党の紅軍が、ここの草原を横切ったことを記念するための命名であった。長征の間、紅軍は雪山、草原を横切り、チベットのアムド、ギャロン、カム等を通過した。

道すがら、彼らはチベット人を騙し、武力による血を伴う略奪も行った。1936年、毛沢東は延安でエドガー・スノーに対し(チベット内の長征について)こう語っている。「紅軍は(チベットで)唯一の対外債務(外債)を作った。いつか、この食料の借りを返さねばならない」、と。

そして、共産党はどうやって実際この借りを返したのであろうか?1950年代この辺りのチベット人村落はほぼ全滅させられたのだ。そして、現在、この一帯がもっとも多くの焼身抗議者を出しているのだ。

ウーセルブログ、2013年1月19日

ウーセルは2011年10月5日のブログでも「利用されるゲタク・リンポチェ」というエントリーを公開している。長征がテーマで、カンゼでチベット人が「騙され、利用された」歴史を紹介されている。

その中でも上記と同様の毛沢東がエドガー・スノーに語ったという話を引用し、「『対外債務』とは何か?外国に借りがあるという意味ではないのか?毛沢東が当時、チベットを中国の一部分とは考えていなかったことが分かる」とコメントした(関連記事)。

20130120_写真_チベット_長征_
*長征移動図。地図のもっとも西側に白玉と書かれているところがペユル。その東側で矢印が集まっている場所がカンゼ(甘孜)、その北東にンガバ(阿坝)、さらにその赤い道を東北東に辿ったところに今回話題にされている紅原地区がある。


■ンガバのチベット人、3世代の傷

また、キルティ・リンポチェは2011年11月3日、米議会人権委員会に呼ばれ、チベット問題に関する証言を行っている(米議会人権委員会におけるキルティ・リンポチェの証言)。その際、リンポチェはンガバの人々がこれまでに共産党により受けた「傷」を3つの時期・世代に分けて説明している。

「第一世代の傷」は1935年紅軍の長征がンガバを通過した時に受けた傷。「第二世代の傷」は1958年の侵略から始まり文革が終わるまでに受けた傷。「第三世代の傷」は1998年以来「愛国教育」キャンペーンが始まってからの傷であるという。

その内、以下「第一世代の傷」を紹介する。

第一世代の傷:
ンガバはチベット内で近代、中国により襲撃された最初の地域であります。中華人民共和国建国以前の1935年、紅軍の長征がンガバを通過した時、中国軍は当時2000人の僧侶が暮らしていたラテン僧院を完全に破壊しました。その後、隊はムゲ・ゴンチェンに向かい道すがら多くの僧侶や一般人が殺害されたり、負傷しました。

軍はムゲ僧院で会議を開き、その後ギャロン・チョクツェ、キョンキョ、ジャプック、及びダツァン僧院から貴重な物品と穀物を略奪しました。その結果、地域ではチベットの歴史上初めての飢餓が発生しました。この時地域のチベット人は初めて木の葉を食べることにより生き抜くことになったのです。

ミュの首長チョクツェの王と周辺のチベット人たちは占領軍と戦いました。しかし数に勝る中国兵に勝つことはできませんでした。紅軍指導者朱徳とその部下がキルティ僧院の中堂を占拠した時、ンガバ・キルティ僧院の第44代僧院長アク・タプケの一族はじめ多くの人々が銃殺され、仏像・菩薩像は略奪、破壊されました。紅軍とは宗教破壊者であるのみか略奪者であるということを人々は知ったのです。

この時、毛沢東は広大なチベット地域を見て、これを占領しようというアイデアを得たのです。そして、1949年に中華人民共和国を建国した翌年、彼は第18旅団を送り込む事によりこれを実行したのです。このような事件がンガバの人々の心に癒しがたい傷を残したのです。

*本記事はブログ「チベットNOW@ルンタ」の2013年1月20日付記事を許可を得て転載したものです。

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