中国、新興国の「今」をお伝えする海外ニュース&コラム。
2013年05月25日
東京駅全景 Panorama of Tokyo Station / Yuya Sekiguchi
■東京駅の「空中権」利用と赤い重慶
先日、「空中権」という聞き慣れない言葉がニュースで流れたことがあった。これは、先日完成した東京駅の復元改修工事にあたって、東京駅の駅舎敷地で未使用となっている容積率を、JR東日本がその周辺の新築ビルに売却し、復元工事にかかる費用およそ500億円をそれによってまかなうというものだ。これは東京都千代田区の一部が「大手町・丸の内・有楽町地区特例容積率適用地区」として指定されたことを受けたもので、東京駅の周辺ビルは、空中権を購入することによって本来の容積率以上の高層ビル化を実現できるようになった。
このような「空中権」すなわち容積率の取引は、経済学で言う「コースの定理」、すなわち本来市場では解決できないはずの経済活動の「外部性」を、排出権や空中権といった所有権を設定することで「内部化」し、市場取引によって解決しようという考え方に基づいている。経済活動と環境汚染物質の制限を両立させる排出権取引の制度も同じ考え方に立っている。詳しくは山形浩生さんによる解説をどうぞ。
さて、このような外部経済の内部化は、都市開発に関する自由な取引と、景観の保護などを両立させるうまい方法だと考えられている。一方、市場メカニズムの浸透を「新自由主義的」だとして警戒する人々からは、批判の的になるかも知れない。
もっとも、そのことを直接論じたいわけじゃない。ここで紹介したいのは、そんなコースの定理の応用が、中国、それも失脚した薄熙来前書記の元で「文革の再来」といわれるポピュリズム的な強権政治が行われ、「左派」の牙城だと思われていた重慶市で大々的に実施されているらしい、というお話だ。
■重慶モデルはコースの定理の応用だった
ネタ元は、黄奇帆重慶市長が、左派よりの論調で知られる『環球時報』に寄稿したコラム「重慶地票制度は全国の参考例になる」である。この黄市長は、薄熙来の右腕だったが、一連のスキャンダルに直接巻き込まれずに政治生命を保ったいわくつきの人物だ。「重慶モデル」という言葉は、その後拡大解釈されて革命歌推進汚職官僚撲滅運動やら、あるいは市街地のの緑化運動まで含むようになったが、もともとは戸籍制度改革など、中国の社会矛盾の根源とも言うべき「農村-都市間の二元制度」の解消を目指した社会実験のことを指していた。この「地票制度」も、「重慶モデル」のコアの部分である農村-都市一体化と深く結びついている。薄熙来の失脚とともにその存続までも危ぶまれた、狭義の重慶モデルはその後どうなったのか?それを考える上で興味深い。
この記事をよく読むと、問題になっている重慶の「地票制度」とは、簡単に言えば「農地開発権」を、それぞれの農家に使用権がある耕作地以外の土地=住宅用地に割り当て、それを農民と地方政府の間で取引させることを通じて、農民に「都市住民並み」の生活を送れるだけの所得を保証しよう、という、まさに上で述べたようなコースの定理を応用した政策だ、ということがわかる。
中国ではここ近年目覚しく都市開発が進んでいるが、一方で食糧の完全自給を目指している中国政府は、全国で18億ムー(1ムーは約6.67アール)という一定の耕地面積を確保することを政策として掲げている。このノルマは、各地方レベルに割り当てられて実行が義務づけられる。つまり、住宅や工場などに開発できる農地の総量は、地域ごとにしっかり決められていることになる。「地票制度」のポイントは、このような地域内の開発可能な農地の総面積に「農地開発権」を割り当て、さらにそれらを「地票」という分割可能な資産にして、取引を行えるようにすることにある。
■乱開発防止と農民の権益保障をバランスする政策
たとえば都市に仕事を見つけて、農村を離れようとする農民が、自分が使用していた住宅用地を農地に戻せば、農民はその分だけの「農地開発権」=地票を手にすることができる。農民は、そうして手にした「地票」を地方政府や開発業者に売却することによって、「農地開発権」の希少性に見合った現金を受け取る一方、地方政府および業者は、購入した「地票」分の面積の農地を住宅地などに開発する権利を得ることになる。以上が「地票」の基本的な考え方だ。
この「地票制度」の重要な点は、「地票」の価格が、必ずしも個々の農民が手放す住宅用地の直接の開発益ではなく、地域全体の「農地開発権」の希少性によって決まってくる点だ。たとえば、都市部から遠く離れた僻地の農村に住んでいて、そこで非農業転用を行っても大した利益がみこめない(1ムーあたり2~3万元)地域の農民であっても、自分たちのの住宅用地を農地に戻し、手にした「地票」を売却することで、中心部に近い土地を開発して得られる収益と同じだけの価値(1ムーあたり20万元)を持つようになるわけだ。このような地票制度を通じた土地の取引は、これまでの農村開発に不可避的に伴っていた、土地開発のレントの分配に関する深刻な不平等性を解消する上で大きな意味を持っている。これまでのやり方では、農民が農地を手放す際の補償金は地域によって大きく異なっていたし、また売却益の大部分を地方政府に横取りされるケースがほとんどだったからだ。
もちろん、このようなやり方にも問題はある。1ムー20万元という価格は重慶市政府がアプリオリに決めているようだが、本当に全ての農民にそれだけの額を保証できるのか。また、そもそも各地域毎に割り当てられた耕地面積のノルマが妥当なものなのかどうか、など、ちょっと考えただけでもいくつかの疑問は浮かんでくる。それでも、農地の乱開発に一定の制限を設けつつ、都市開発のレントの公正な分配を実現する、という政策理念自体は間違っていないし、その実現という点でもこれはなかなか良くできた制度設計なのではないかと思う。
■ポジとネガ、烏坎村と重慶市
話は変わるけど、一時期「中国の草の根民主主義のモデルケース」として海外メディアの注目を集めていた広東省烏坎村が、どうも問題の発端となった土地収用に関するトラブルをうまく解決できていないらしく、「民主化の行き詰まり」という失望をこめて報道する記事をよく見かけるようになった。中国国内の左派的な論客は、「それみたことか」といわんばかりに「烏坎モデル」やそれを持ち上げたリベラルな学者たちをdisるような論考を発表しているぐらいだ。
(選挙だけでは民主主義は育たない、「烏坎村の苦境」を評す―中国(1)、(2)参照。)
そのことについてここでは論じないが、「烏坎モデル」への風当たりが強くなるのとほぼ同じくして、ここで紹介したような「重慶モデル」の社会実験に再び光が当たり出したように見えるのは、個人的にはとても興味深い。以前、朝日出版社のブログ連載で書いたとおり、やはりこの二つの地域の事例は、現代中国社会の問題を考える上で切り離せない「ポジとネガのような関係にある」のではないだろうか。
以下、朝日出版社第二編集部ブログ連載「現代中国――現在と過去のあいだ」より。
いずれにせよ、土地開発をめぐるレントの分配をめぐって、住民の「民意(=一般意志)」を反映した政治が行われているという点では、鳥坎村のケースも、重慶のケースもどちらも「中国的な民主」の一事例である、とさえ言えると思う。また、いずれのケースも争点となっているのは土地開発に伴うレントの「公正な分配」だという意味で、この二つの地域の事例は、「平分」をよしとする思想をその背景として共有する、ポジとネガのような関係にある。現在共産党支配の下でかろうじて保たれている「公正さ」への支持は、この二つのモデルの危うい拮抗の下に成立している、のではあるまいか。