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2013年12月23日
チベット人作家ツェリン・ウーセルさんがブログで、文化大革命中の派閥抗争により12人のチベット人が命を落としたジョカン事件について紹介している。1968年、ラサのジョカンを占拠していた造総派を、大連指派を支持する人民解放軍が襲撃したというものだ。
毛沢東は派閥争いに一方的に肩入れした軍を批判。チベット人に埋葬の習慣はないにもかかわらず、死亡したチベット人たちは烈士陵園に埋葬された。しかしわずか1年後には墓は掘り返され、遺体は野ざらしにされ腐敗するがまま打ち棄てられた。
この悲惨な事件について中国当局はほとんど語ることがなく、歴史の片隅に忘れ去れようとしている。そればかりか烈士陵園は革命観光地としての再開発が進められており、荒れるがままとなった12人の墓が今後、どうなるのかすら定かではないという。
ラサの「紅衛兵墓地」とチベットの文革中の事件
ブログ・看不見的西蔵、2013年9月22日(初出:RFA中国語版、2013年9月20日)
訳:雲南太郎
■ラサの烈士陵園
7月のある日、私たちはデプン僧院と遠く向き合う「烈士陵園」に出かけた。周囲には、成都軍区直属のチベット空軍指揮部や名前の分からない部隊などの大きな駐屯地があった。ずいぶん前、ここはうっそうとした公園で、デプン僧院か近くのネチュン僧院に属していたようだ。今では駐屯地のほか、高層建築も建てられようとしている。どうして不動産会社は陵墓の隣に団地を建てられるのだろう?
もちろん、ここが古来から墓地だったはずはなく、この数十年の間にできたものだ。ネット上の説明によると、「1955年に建てられ、1991年に修復された」「チベットの平和的な解放、川蔵公路と青蔵公路の建設、反乱平定と改革、中印自衛反撃戦(1962年の中印国境紛争)、ラサ騒乱の平定、チベットの発展と建設のため、英雄的に身をささげた800人以上の烈士を埋葬し、自治区級国防教育基地、民政部愛国主義教育基地と名付けられている」「愛国主義精神を発揚するため、ラサ烈士陵園はラサ市の紅色旅遊景区(革命関係の史跡を中心とした観光エリア)を形成する」「既に全国紅色旅遊古典的景区プロジェクトに入っており、総投資額は1641万元(約2億8000万円)」だという。
だから、私たちが「烈士陵園」に行った時、「紅色旅遊景区」の大型プロジェクトが江西省の金匯建設工程有限公司によって請け負われ、土木工事が盛んに進められていた。掲げられた工事概況のプレートによると、10月末に竣工するという。発注者や設計業者、監督業者、監理業者、施工業者などの代表者11人のうち、チベット人の名前は1人しか見当たらず、ほかは全て漢人の名前だった。
■ジョカン事件、文革の派閥争いに巻き込まれ命を落としたチベット人
「烈士陵園」の用語説明によると、2000以上の墓は四つのエリアに分かれている。烈士墓地、指導者墓地、一般人員墓地、そして「文革」墓地だ。このうち「文革」墓地は「烈士記念亭の北西の隅にある。計74基の墓があり、主に『文革』期間中のジョカン闘争で死亡した人員が葬られている」という。この数字には驚かされた。私は「文革」墓地を何度も訪れているし、チベットでの「文革」の歴史を調べ、文章も書いてきた。私の理解では、ここには「『文革』期間中のジョカン闘争で死亡した人員」の墓が12基あり、埋葬されているのは74人ではなく、12人の死者だ。彼らはみな紅衛兵で、若いチベット人だった。
もちろん、ラサで「文革」の武闘によって死んだのは決して12人や74人にとどまらないし、全てがチベット人や学生だったわけでもない。「文革」の時代、チベット人や漢人などの民族は歴史上かつてなかったほどの団結を実現し、「敵か味方か階級で決まる」段階から「敵か味方か派閥で決まる」段階へと細分化し、民族問題はどうでもよくなっていた。12人のチベット人の年齢は17~36歳、女性3人と男性9人だ。全員がジョカン内外で解放軍に撃ち殺されたが、民族問題とは関係がなく、「文革」中の派閥を原因とする虐殺だ。
雑草の生い茂った「文革」墓地を歩くと、どの墓もひどく破損し、墓碑に彫られた文字もはっきりしなくなっていた。私は再び一つ一つを写真に収め、13年前のことを思い出した。まさにここで、若いチベット人の墓の前に立ち、彼らを死なせながらもはっきりとしない過去の出来事について話した。私の父が撮影したチベットの文革の写真に基づき、チベットの文革の記憶に関する本を書き、歴史の本当の姿を力の限り取り戻すよう、王力雄が私を励ましたのだった。
13年前はまだ、この墓地が当初重視されていたことは見て取れた。高い壁があり、コンクリート製の小さな広場を半円状に並んだ12基の墓が取り囲み、広場の中央には花壇と電灯があった。どの墓もきちんと精巧に作られ、墓碑には死者の写真をはめ込む部分がまだ残っていた。しかし、今はもう雑草が生い茂り、裂け目のできた広場には家畜の飼料が積まれていた。墓はひび割れており、碑文ははっきりとは読めず、精いっぱい考えてようやくかすかに読み取れた。1行目は「1968年の『6・7』ジョカン事件で殉難した烈士」。2行目は殉難者の名前と戸籍、年齢だ。女性であれば特にそう明記してある。そして「チベット自治区革命委員会 チベット軍区 1968年8月建立」と続く。
■ラサ革命造反総司令部とプロレタリア大連合革命総指揮部の争い
7年の調査と執筆を経て、これはチベットの文革史上、最も驚愕すべき流血事件の一つだと分かった。大まかに説明すると、文革に席巻されたチベット自治区にも中国各地と同じように、初めに「文闘」、続いて「武闘」を繰り広げた造反派がいた。彼らは、水と火のように相容れないが実際は同じ性質を持つ2大派閥、「ラサ革命造反総司令部」(造総)と「プロレタリア大連合革命総指揮部」(大連指)に分かれていた。「造総」に占拠されたジョカンでは、通り沿いの3階左側の部屋が放送局になり、数十人の「造総」メンバー(多くは居民委員会と工場で「造総」一派に属していた紅衛兵の住民と労働者、積極分子で、ラサ中学の紅衛兵もいた)が駐屯していた。この放送局の宣伝攻勢はとても猛烈だったという。そのため、1968年6月7日、「大連指」を支持する解放軍の銃撃に遭い、多数の死傷者を出した。
しかし、1995年にチベットの当局が出版した「中国共産党チベット党史年表」では、この事件について簡単に一言触れているだけだ。「6月7日群衆の支配するジョカンにラサ警備区の部隊が進駐した時、妨害に遭って衝突が起き、犠牲者が出た。」
実際にはその流血事件により、ジョカン内部で殺された者が10人、近くの大通りで殺された者が2人いた。平均年齢は二十数歳で、全員がウォバリンやバナクショなどの居民委員会の紅衛兵だった。当時、銃声を聞いた人は、「ダダダ、ダダダ」と音が響いたと表現した。また、放送が声をからせて「われわれ『造総』は銃撃された」と伝えるのを聞いたという。戦闘はすぐに終わった。負傷者は死者よりもずっと多く、馬車の上にめちゃくちゃに積まれ、メンツィーカン(蔵医院)正門に運ばれて並べられた。
■掘り返された墓、ウジがわいた遺体
ジョカンで起きた流血事件はラサを騒然とさせ、北京までも揺るがした。毛沢東と林彪は軍が「派閥の一方を支持し、もう一方を抑えつけた」ことを批判した。チベットの軍側関係者は「造総」に謝罪し、一部は処罰された。「造総」は機関紙「紅色造反報」紙上で事細かに報じ、毛沢東が指示を出す姿をかたどったバッジをわざわざ作り、大型デモ活動を実施した。命を失った12人は特別に開かれた「烈士陵園」内の小さな墓地でおごそかに埋葬された。
当初、彼らは烈士と認められていた。しかし、1年後には「死んでも罪を償えない」と言われ、棺桶を掘り返され、遺体を野ざらしにされた。銃撃で負傷したアナウンス要員の夫は私の取材を受け、こう振り返った。「当時、私が見に行くと、もう5、6基の棺桶が掘り返されていました。遺体は腐敗して骨になり、ウジがわき、ハエが乱れ飛んでいました。遺体のいくつかは後になって家族に引き取られ、ほかの遺体は埋め戻されました。本来ならチベット族に埋葬の習慣はありませんが、烈士なのだからと言われ、当時はこうするしかありませんでした。でも、あんなひどいことになって……」。彼は言葉に詰まり、それ以上何も言わなかった。
45年が過ぎた。非業の死を遂げた12人の紅衛兵をここで弔った人はいないという。チベット人に墓参りの習慣はないが、関係する組織は清明節に「烈士陵園」のほかの死者を供養する時、ここに来るべきだ。しかし、これまで事件全体の経過がどんな公開の文書にも書かれてこなかったように、「1968年のラサ『6・7ジョカン事件』」という呼び名さえ今では誰も口にせず、事件そのものがほぼ埋もれてしまっている。そして今、より懸念されていることがある。「紅色旅遊景区」へと拡張した後、この紅衛兵墓地は更地にされるのだろうか、それともまだ残っていくのだろうか。
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*本記事はブログ「チベットNOW@ルンタ」の2013年12月22日付記事を許可を得て転載したものです。