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2014年01月04日
Lonely Soccer Ball / Mr. T in DC
ブンデスリーガ初のアジア人プレーヤー、ブンデスリーガにおける東アジア人プレーヤーの活躍の歴史は、1977年の日本人ミッドフィルダー、奥寺康彦のFCケルン移籍に始まります。この当時、日本にはアマチュアサッカーしかなく、奥寺は1965年から1992年まで日本のトップサッカーリーグであった日本サッカーリーグ(JSL)で、選手生活をスタートしました。チームは企業に所属し、リーグ発足当初はほとんどの選手たちがその企業の社員でした。奥寺は、JSLから下部リーグへ一度も降格した経験のない唯一のクラブチームである古河電工で7年間プレーしました。
1977年、のちにケルンのチームメイトから「オク」という愛称で親しまれ、この時すでに日本代表として5年間プレーしていた奥寺は、代表チームとしてドイツに行った際に発掘されました。二宮寛代表監督は、代表チームの将来有望な選手がブンデスリーガのスカウトやコーチのいるところでプレーする機会を作り、その時に奥寺がケルンのヘネス・ヴァイスヴァイラー監督の目に留まったのです。ドイツ行きを決断することは容易ではありませんでした。日本の所属クラブを去るということは、職場を去るということでもあったからです。しかし、奥寺は日本サッカー協会の後押しと、帰国の際にはまた同じ職場に復帰できるという条件で海外移籍を決断しました。ヴァイスヴァイラー監督はオクと正式に契約を交わし、その数週間後に奥寺はブンデスリーガデビューを果たし、ケルンで通算75試合に出場しました。このデビューにより、奥寺はブンデスリーガの上位リーグのみならず、ヨーロッパ全体においても初の日本人プレーヤーとなりました。
オクは、ミッドフィールドを束ねられる大変頭の良いミッドフィルダーとして、ケルンのスタメンとなり、その活躍ぶりは明らかなものでした。1年目のシーズン、ケルンはリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に輝き、2年目のシーズンではドイツカップ連覇を果たしました。1978ー1979シーズンのヨーロピアンカップでは、準決勝で、最終的に優勝したノッティンガム・フォレストを相手に、アジア人として大会史上初となるゴールを記録しました。
1986年、オクは日本に帰国し、古巣である古河電工に復帰しました。渡独前と同じ職場への復帰が条件でしたが、その必要はありませんでした。そのかわり、ドイツから帰国すると奥寺は、JSLでプレーする日本生まれのプロサッカー選手第一号となり、日本サッカーのプロ化に向けて必要不可欠な存在となりました。また、オクのドイツでの成功は、日本のサッカー組織幹部に、日本でもハイレベルな戦いに必要な人材を育成することができるという自信をもたらしました。奥寺はのちに日本でマネジメント業務に携わるようになり、最近ではプリマス・アーガイルの会長を務めるなど、今なお世界のサッカーシーンにおいて精力的に活動しています。