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Jiufen Streetscape - 14 / Kabacchi
■台湾の民俗文化を記録、雑誌『民俗台湾』の創刊
太平洋戦争の勃発も目睫に迫った一九四一年七月、台北で『民俗台湾』という雑誌が創刊された。刊行の中心となったのは池田敏雄という人物。彼は公学校(台湾人向けの小学校)教諭だった頃から台北の下町・艋舺(現在の萬華区)に住み込み、庶民文化にすっかり馴染んでいたほどの台湾びいきであった。
池田敏雄という「台湾オタク」が雑誌『民俗台湾』を牽引した情熱は、日本人/台湾人という民族の壁や、支配者/被支配者という植民地体制の壁を乗り越えようとしていた。そのことの意義は、歴史を見るにしても、民族共存という現代的問題を考えるにしても資するところがあるのではないか。
南進の前線基地と位置付けられていた台湾では戦時色が日増しに色濃くなりつつあり、陰に陽に台湾人の「日本人」化を推し進める、いわゆる「皇民化運動」が展開されていた。台湾人の民俗文化を記録することは、見方を変えれば日本人との文化的相違を際立たせることでもある。こうした時代状況下では当局から歓迎されるはずもない。ましてや、池田は公学校教諭を辞めた後は台湾総督府情報課に勤務する公務員となっており、彼が雑誌刊行の正面に立つわけにはいかなかった。
そこで、池田は台北帝国大学医学部教授の金関丈夫に相談する。金関は『民俗台湾』の創刊趣旨に賛同し、編集人となることを快諾した。金関の帝国大学教授という肩書きの権威が当局に対して抑えになるという計算である。
金関の本職は解剖学者であるが、彼は形質人類学の観点から考古学に関心を持っていたばかりでなく、歴史や文学にも広く造詣があり、文筆を得意とする博物学的な才人であった。実質的な編集実務は池田が取り仕切ったが、折に触れて金関から知恵を授けてもらうようになる。単に民俗学的な記録を並べるのではなく、肩のこらない読み物として工夫するようアドバイスしたのも金関である。金関自身がかつて関わっていた人類学・考古学の雑誌『ドルメン』(岡書院から一九三二年に創刊)がモデルになったという。
植民地当局が推進する近代化と日本化(皇民化)、こうした社会的圧力によって台湾古来の習俗が消え去りつつあるのを憂える人々によって『民俗台湾』が担われていた点では、例えば、朝鮮半島における柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟などのような存在にたとえられるだろうか。
■「日本人=調査者/台湾人=被調査者」の構図を超えて……『民俗台湾』の特徴
『民俗台湾』の特徴としては、差し当たって次の二点があげられるだろう。第一に、立石鉄臣の描いたイラストや、松山虔三の撮った写真によって、ヴィジュアルとして民俗資料の記録に努めたこと。文章だけでは捉えきれない視覚的な具象性は資料として貴重である。とりわけ立石のイラストにはある種の温もりが感じられて、一般読者の興味を大いにそそったことであろう。
第二に、日本人ばかりでなく、台湾人からの寄稿を積極的に募ったこと。編集運営の主力メンバーであった黄得時、楊雲萍(二人とも戦後は台湾大学教授)をはじめ、例えば作家の楊逵、張文環、呂嚇若、龍瑛宗、周金波、巫永福、呉新栄、画家・工芸家の顔水龍、歴史家の曹永和、法制史家の戴炎輝、社会学者の陳紹馨、労働運動家の連温卿、弁護士の陳逸松、医学者の杜聡明といった台湾知識人の錚々たる顔ぶれを誌面から見出すことができる。さらには市井の一般読者からの投稿も歓迎していた。
『民俗台湾』編集同人には、日本人=調査者/台湾人=被調査者という対峙的な構図に陥ってしまわないように、台湾人自らによって民俗文化の記録を促す意図があったと言えよう。台湾では、日本統治時代には「日本史」を、戦後の国民党政権時代には「中国史」を「自分たちの歴史」として押し付けられたという経緯がある。『民俗台湾』編集同人が台湾人自身の主体性を促しながら民俗資料の記録に努めたことは、近年になって「台湾人」アイデンティティーの確立に寄与したという評価につながっていく。
■『民俗台湾』は「植民地民俗学」だったのか?
「日本の植民地支配は良いこともした」と言ってふんぞり返るのは論外であるが、かつての植民地支配や対外的侵略といった負い目を持っている日本人の立場から現代史を考えようとする場合、「語り口」のナーバスな難しさに困惑することがしばしばある。
とりわけアカデミズムにおいてポストコロニアルのアプローチが盛んになると、支配者/被支配者、中央/周縁といった枠組みを前提とした学知的構造そのものがはらむ知的暴力性が問題とされ、当時においては一見「良心的」な振る舞いに見えたとしても、こうした学知的構造に彼らも取り込まれていた以上、その責任は逃れがたいという見解が主流となってきた。例えば、川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』(講談社選書メチエ、一九九六年)が、『民俗台湾』は柳田國男が構想した(と川村が言う)「植民地民俗学」の一環に過ぎないと断罪したのはその代表例である。
ところで、川村をはじめとした論者は『民俗台湾』の植民地性を物語るエピソードとして、『民俗台湾』創刊趣意書(金関の執筆)にあった「台湾旧慣の湮滅を惜しむのではない」という文言をとらえて楊雲萍が「冷たい」と非難するという一悶着があったことを取り上げる。しかしながら、「皇民化運動」という当時の時勢の中、総督府から睨まれないよう筆を曲げなければならない事情があった点を考慮する必要があろう。
実際には、間もなく楊雲萍は金関と和解したようで、『民俗台湾』に何度も寄稿している。彼は戦後になって「今にして思えば、当時の荒れ狂う時勢の中で、先生がたの苦心を、若かった僕は、冷静に受け取れなかった所があったと思う。」「『民俗台湾』の創刊は、日本人の真の勇気と良心のあらわれであった」(注1)と記しているのだが、こうしたことを川村が取り上げないのは議論の構成に恣意性が疑われる。
また、黄得時は「ある人から、民俗台湾は日本人の編集した雑誌である。したがってその中には、民族的偏見あるいは民族的岐視の傾向があるのではないかという疑問を投げかけられたことがある。自分も発起人の一人であったからよく知っているが、その点についてはあえていう、ぜったいにそのような事情はなかったと答えておいた。もしそうでなければ、民俗台湾が総督府当局から、皇民化政策を妨害するものとして、たえず圧迫と白眼視を受けるはずはなかった」と語っていた(注2)。
客観性を標榜する学問的営為そのものの中に無意識のうちに紛れ込んでいる偏見を暴き出し、その自覚を促した点でポストコロニアルの議論が貢献した成果は大きい。他方で、それが一つの理論として確立され、事情を問わずに一律に適用され始めると、今度は断罪という結論が初めにありきで、当時を生きた人々の生身の葛藤が看過されかねない。そうしたスタンスの研究には欠席裁判の傲慢さ、冷たさすら感じられる。当時において成立していた学知的構造の矛盾に気づいていたとしても、少数の人間だけで動かしていくのは極めて困難であろう。そうではあっても良心的に振舞おうと思った人間の主観的な情熱は、「偏見」を崩せなかったという理由において、無自覚な構造的加害者として一律に断罪されなければならないのだろうか?
こうした問題意識をふまえて、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と三尾裕子は問いかけている。『民俗台湾』にしても、時局に迎合的なことも書かなければそもそも雑誌の存続自体が困難であった。そうしたギリギリのバランスの背後にあった真意を誌面の文字列だけからうかがうのは難しい。「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」という指摘には私も共感できる(注3)。
■『民俗台湾』の継承と「蛍の光」
戦局も押し迫ってきた一九四四年七月、編集実務の一切を切り盛りしていた池田が召集されてしまった。画家の立石鉄臣がかわって編集作業を行うが、その立石までやはり召集されてしまう。最後は金関が一人で編集にあたり、一九四五年一月号まで何とか粘り続けた。
日本の敗戦で台湾は中華民国へと返還される。こうした体制転換にあたって、『民俗台湾』の人的ネットワークはこれまで蓄積してきた台湾研究の成果を引き継ぐ上で大きな役割を果たした。金関丈夫は新制台湾大学医学院教授、國分直一は同文学院副教授となり、池田敏雄は台湾省編訳館台湾研究組に所属するといった形で『民俗台湾』編集同人たちも留用され、引き続き台北で暮らすことになった(「留用」とは特別な技術を持った人々が国民党の要請によってしばらく現地に留まったことを指す)。
気心の知れた楊雲萍が台湾研究組の責任者となり、編訳館の館長には日本留学経験のある知日派で魯迅の親友だったリベラリスト、許寿裳が就任。台湾人、留用された日本人、来台した中国の知識人、こうした人々が民族的垣根を越えて交流するシーンが戦後間もなく、ほんのひと時とはいえ出現したというのが実に興味深い。
一九四七年二月、いわゆる二二八事件が起こった。ちょうど台湾南部の曽文渓への調査で出張していた金関と國分は命からがらたどり着いた台北駅で装甲車から銃撃を受けるなど、騒乱をじかに目撃したらしい。留用日本人が台湾人を煽動したのではないかと当局は疑っていたとも言われ、日本人の帰国が早まった。台湾省編訳館は閉鎖され(翌年には許寿裳が暗殺される)、日本への引揚船が順次出航、『民俗台湾』編集同人も船上の人となった。一九四八年十二月に引揚船に乗った立石鉄臣は、基隆の港から船が離れるとき、波止場に集まっていた台湾の人々が一斉に日本語で「蛍の光」を歌いだし、近寄ってきたランチは日章旗を振って見送ったことを回想している。
(注1)『えとのす』第二十一号、一九八三年七月。
(注2)『台湾近現代史研究』第四号(一九八二年十月)所収の池田敏雄の回想から。
(注3)三尾裕子「『民俗台湾』と大東亜共栄圏」(貴志俊彦・荒野泰典・小風秀雅編『「東アジア」の時代性』[渓水社、二〇〇五年]所収)、同「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第七十一号[二〇〇六年三月])を参照。
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*本記事はブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」の2014年1月11日付記事を、許可を得て転載したものです。