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謝介石――「満洲国」初代外務大臣となった台湾人(黒羽)

2014年01月24日

■謝介石――「満洲国」初代外交部総長となった台湾人■

総統府
総統府 / slash__


従来、大陸へ渡った台湾人についての研究は抗日運動に従事した点に重きが置かれていた。すなわち、台湾出身だが大陸へ行き、国民党と共に台湾へ戻ってきたいわゆる「半山」が歴史的正統性の観点から高く評価された。他方で、対日協力者、すなわち「漢奸」の疑いがある者については、史料上の制約ばかりでなく、政治的タブーになっていたことから研究が遅れており、本格化したのは1987年に台湾で戒厳令が解除されて以降のことである。


■中国本土に渡った台湾人とその動機

中国大陸へ渡った台湾人の動機を類型化してみると、(1)進学(台湾人が台湾で高等教育を受けられる機会は乏しく、また日本へ留学すると費用がかかるため、大陸や「満洲国」の大学・専門学校へ進むという選択肢があった)、(2)求職、(3)商売(国籍上は「日本人」であった台湾人は、大陸で日本人と同様の特権を享受できた)、(4)日本統治への抵抗(上述の「半山」)、⑤戦時期の徴兵・徴用、といった要因が挙げられる(注1)。

こうした要因のうち、(2)求職には旧満洲国や汪兆銘政権をはじめ日本が中国大陸で作り上げた傀儡政権での役職も含まれる。日本軍が大陸で侵略行動を進めるにあたり、国籍上は「日本人」であっても漢民族意識を持つ台湾人は「日中の架け橋」として重宝されていた。そのような人物の中で最も高いポジションまで出世したのが、旧満洲国で初代外交部総長を務めた謝介石である(注2)。


■満洲国外相となった台湾人・謝介石

謝介石は1879年、台湾中部の新竹に生まれた。当初は伝統的教育を受けていたが、日本人の設立した国語伝習所及び公学校で学び、通訳として働き始める。日本人官吏の推薦を受けて1904年に東京へ留学。東洋協会専門学校(後の拓殖大学)で台湾語を教えながら、明治大学法科を卒業する。明治大学の同窓であった張勲(清末民国初期の軍人・政治家)の息子と親しくなり、この縁で中国大陸に渡って張勲の法律顧問となった。清朝滅亡後は吉林法政学堂教習兼吉林都督府政治顧問となり(この時は謝愷と名乗った)、吉林にいた日本人と共に中日国民協会を立ち上げている。

1914年に在天津日本総領事館に申請して日本国籍を放棄、翌年に中華民国国籍を取得する。袁世凱政権で要職に就いた張勲に従って出世した。1917年7月、張勲が軍勢を率いて北京へ入城し、溥儀を擁して画策した復辟運動に謝介石も関わり、外交部官員となる。段祺瑞の巻き返しで復辟が失敗した後は上海・天津を転々とする生活を送った。1925年以降、溥儀の側近であった鄭孝胥・羅振玉らと連絡を取り合う。帝政復活を諦めきれない溥儀は日本軍を後ろ盾にすることを考えており、大阪総領事として日本で勤務したことのある鄭孝胥や、とりわけ日本語が流暢で外交活動の経験がある謝介石を重用したという。

1931年の満州事変に際して、謝介石は吉林にいた熙洽(愛新覚羅家の一族で日本留学経験のある軍人)の配下として政治工作を進めて頭角を示し、翌1932年に「満洲国」が建国されると初代の外交部総長(外務大臣)に任命された(ただし、実権は外交部次長の大橋忠一が握る)。彼の外相在任中にはリットン調査団の来訪、日満議定書の締結、溥儀の訪日といった出来事があった。1935年、日本との外交関係が公使級だったところを大使級に格上げされた際に、謝介石は外交部総長を辞任して初代駐日大使に就任する。


■謝介石の台湾凱旋とその影響

1935年10月から11月にかけて台湾で「台湾始政四十年記念博覧会」が開催された。1895年に下関条約で清朝から台湾を割譲されて以来の「統治の成果」を示すべく総督府が総力を挙げて取り組んだ一大イベントであった。この博覧会に謝介石は皇帝・溥儀の名代として出席する。長男が故郷・新竹の名望家の娘と結婚することも来台の理由だったらしいが、「故郷に錦を飾る」という気分の高揚感も当然ながらあっただろう(なお、戦後、台湾省行政長官として接収にあたることになる陳儀も当時、福建省主席としてこの博覧会に出席している)。

日本人優位の植民地体制の中で一般の台湾人は逼塞した思いを抱え込んでいた。このような体制の頂点に立つ台湾総督は「土皇帝」と呼ばれるほど絶大な権力を握る存在であった。そうした中、満州国皇帝の名代として台湾を訪問した謝介石が、日本人の台湾総督から恭しく迎えられるのを目の当たりにしたことは、当時の台湾人からしてみると新鮮な驚きであったろう。植民地体制の中では絶対にあり得ない栄達を、謝介石は成し遂げた――「俺も海外へ行って一旗揚げよう!」と意気込んだ青年がいたのも決して不思議なことではない。

他方で、「台湾で地方自治制度は時期尚早だ」と謝介石は発言したため、台湾民族運動を展開していた人々からの反発も招いている。林献堂たち民族運動の穏健派は台湾総督府の圧迫を受けて、台湾議会設置請願運動から地方自治運動へと方針をトーンダウンさせたばかりの頃であった。


■謝介石と台湾人が抱えた葛藤

謝介石は1937年に公的活動から引退する。しばらく東京で暮らした後、満州房産株式会社という国策会社の理事長として再び満洲国に戻った。さらに北京で暮らしていたところ、1945年、日本の敗戦を迎える。漢奸として逮捕され刑務所に入れられたが、1948年に共産党が北京へ入城する前に釈放された。死去したのは1954年である(wikipedia日本語版では1946年に獄死したとされているが、中文版では1954年となっている。後述の事情から1954年の方が正しい)。

台湾を飛び出して大陸へ渡った台湾人の事情はそれぞれに様々であるが、抗日運動を志した人も、大陸で栄達を求めた人も、植民地体制の矛盾から逃れたいという気分を抱えていた点では共通していたのかもしれない。立身出世したくても、頭上には見えない壁がある。そうした息苦しさを感じていた人々の前に現れた謝介石という実例は、当時の台湾人にとって一つの現実的なモデルとなったのではないか。

また、謝介石という人物の生涯を見てみると、単に対日協力から立身出世をしたというだけでなく、溥儀に仕える「清朝遺臣」というもう一つ別のアイデンティティーも持っており、この点もまた中華民国(もしくは中華人民共和国)を正統とする観点からは否定すべき対象となる。いずれにせよ、こうした複雑なアイデンティティーが絡まり合ったあり方について、「漢奸」か否かという正統性を判断基準としたポリティカル・コレクトネスで断罪してしまうと、当時に生きた人々が嫌でも抱えざるを得なかった良くも悪くも生身の葛藤を無視することになってしまうだろう。

2013年2月、台湾で「台湾人在満洲国」というドキュメンタリーが上映されるにあたり、大陸にいた謝介石の子孫が初めて訪台し、台湾にいる親族と面会した(注3)。謝介石の孫にあたる謝同順さんは文革の際、反革命人士と名指されて吊し上げられるのを避けるため、謝輝と改名して身元を隠したという。当初、謝介石は1946年に死んだとされていたが、1997年に謝輝さんが『中国時報』誌に投書して間違いを正し、謝介石は1954年まで生きていたと指摘した。謝介石の子孫も台湾と大陸の双方に分かれて暮らしていたという経緯には、両岸関係の数奇な宿命を感じさせる。

(注1)許雪姫(杉本史子訳)「日本統治期における台湾人の中国での活動」(『中国21』36号、2012年3月)を参照。
(注2)謝介石の生涯については、許雪姫〈是勤王還是叛國──「満洲國」外交部総長謝介石的一生及其認同〉(《中央研究院近代史研究所集刊》期57、2007年)を参照。
(注3)「星島日報」2013年2月27日付の記事を参照

 コメント一覧 (1)

    • 1. chongov
    • 2014年01月25日 01:55
    • 名前は蒋介石と似いな

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