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理加──日蘭の抗争を生き抜いた台湾原住民のリーダー(黒羽)

2014年01月25日

■理加──日蘭の抗争を生き抜いた台湾原住民のリーダー■

Taiwan fog
Taiwan fog / Alan Flowers


■史料に登場した初の台湾原住民・理加

台湾の民族分布を一瞥すると、山地にオーストロネシア系の原住民、平地に漢族系と棲み分けられているように見える。しかし、漢族系の人々が大々的に台湾へ移住してきたのは17世紀以降のこと。それまでは平地にもオーストロネシア系の人々が暮らしていた。

台湾の原住民族は言語的に多様なグループから成るが、平地に住んでいた人々は一括して「平埔族」と呼ばれる。こうした原住民のうち、最も早くから漢人やオランダ人と接触していたのは現在の台南近辺にいたシラヤ族であり、その中でも新港社(「社」は集落を指す)の人々だったと考えられている。台南のあたりは現地語でタイオワンと呼ばれており、これが「台湾」の語源となった。

原住民族は基本的に文字による記録を残していない。そのため、具体的なことについては不明な点が多い。そうした中、歴史上の記録に固有名詞をもって最初に現れた台湾原住民が、新港社のリーダー・理加である。日本側の記録(金地院崇伝『異国日記』)では理加、オランダ側の記録ではDijka、Dijcka、Dicka、Dychaなどと表記されている。


■オランダの拠点としての台湾、日中貿易の中継地に

長崎や平戸といった交易地で最も人気のあった取引品目は中国の絹織物や生糸であった。ところが、当時の明朝は海禁政策を実施していたため、直接の取引は難しい。そこで、日本や中国の貿易商人たちはタイオワンで落ち合って密貿易を行い、莫大な利益をあげていた。

そこに参入を図ったのがオランダ人である。平戸(後に長崎の出島)に拠点を置いたオランダ人は日本へ西洋の文物を将来したイメージが強い。そのため、交易品目にも西洋のものが多そうに思われがちだが、実際のところ、オランダ東インド会社にとって最大の利益源は、中国の絹織物や生糸を日本へ持って来る中間貿易にあった。

ところで、オランダ人の東アジアにおける根拠地はバタヴィア(ジャカルタ)であり、日本からは遠い。交易を安定的に行うには中継基地が必要である。そこで、オランダ人は競争相手であったポルトガル人の根拠地・マカオを攻撃したが失敗してしまい、澎湖島へ退いた。さらに明朝が澎湖島からの撤退を求めてきたため、1624年にタイオワンへ上陸、この地にゼーランディア城やプロヴィンシア城を築くことになる。


■日蘭商人の確執に“巻き込まれた”台湾原住民

オランダ人がタイオワンに新たな拠点を築き、対中貿易の独占を図ったことは、日本の貿易商人にとって大きな脅威となった。そこで、長崎代官・末次平蔵が派遣した朱印船の船長・濱田弥兵衛は、1627年に理加をはじめとした新港社の住民16名を日本へと連れ出した。理加たちを江戸の将軍の面前に連れて行ってオランダ人の横暴を訴えさせ、あわせて台湾を将軍に献上すると言わせるのが目的だった。台湾原住民が日本の土を踏んだことを記録上確認できるほぼ最初のケースである。

オランダ側としても江戸幕府との関係が悪化すると、平戸貿易の利権が危うくなってしまう。オランダ東インド会社の台湾総督ピーテル・ヌイツは慌てて日本へ行き、将軍への拝謁を求めた。しかしながら、末次平蔵の根回しで理加たち台湾原住民の一行は大御所・徳川秀忠や三代将軍・徳川家光と面会した一方で、ヌイツの謁見はかなわず、彼は失意のうちに台湾へ戻らざるを得なかった。

理加たち一行は慣れぬ船旅や異国での旅路に疲れ果て、さらに天然痘にかかって途中で5名が病没してしまった。将軍への拝謁は実現したものの、言葉が通じるわけでもなく、結局、見世物として珍しがられるに終わってしまった。末次平蔵の画策も幕閣からは疑いの目で見られており、これといった成果も出せなかった。理加たちは将軍から銀の棒などを下賜されただけで台湾へ戻ることになる。

年がかわって1628年、濱田弥兵衛の船に乗った理加たちは台湾へ帰り着いた。ところで、腹の虫がおさまらないのは台湾総督ヌイツである。総督の命令でタイオワンに入港した日本船の乗組員が抑留され、日本から帰ったばかりの理加たち台湾原住民11名は国事犯として逮捕、江戸の将軍からの拝領品は没収された。

弥兵衛はいったん釈放されたものの、日本への出航は認められない。切羽詰まった弥兵衛はゼーランディア城へ向かい、ヌイツ総督との直談判に臨んだ。それでも、ヌイツの態度には取り付く島もない。業を煮やした弥兵衛はヌイツに飛びかかって取り押さえ、匕首を突きつけた。総督を人質に取るという荒業に出た彼は、自らの優位をいかしてオランダ側と交渉を行い、譲歩を迫った。日台関係史で有名な濱田弥兵衛事件である。その結果、監禁されていた理加たち新港社の人々も釈放された。

弥兵衛たち日本人が帰国すると、オランダ側は報復のため新港社に対する討伐を行った。理加たちを引き渡さないと村を焼き払うと脅したが、新港社の住民は協力せず、身を隠した理加たちはそのまま消息をくらませた。こうした一連の行動のため原住民社会の中でオランダ人に対する反感が高まっていることを、当時、新港社で布教活動をしていた宣教師のカンディディウスは書簡に記している。


■「あわれで純朴な原住民」ではなかったのではないか

理加が再び姿を現すのは1639年9月のこと。オランダがタカリヤン社と交渉する際の仲介者として彼の名前が出てくる。どのような経緯で理加がオランダ人と和解したのかは分からない。

さらに、オランダは台湾において拡大させた支配領域を効率的に統治するため、原住民各部族の代表者を集めて地方会議を開催するようになった。1641年4月11日に開かれた第一回地方会議以降しばらくの間、参加者リストの筆頭には新港社の理加があげられている。オランダが台湾統治を進める上で原住民社会からの協力が欠かせず、理加はその取りまとめを行うポジションにあって重きをなしたことがうかがえる。

理加が歴史の表舞台に登場したのは、日本とオランダの貿易利権をめぐる抗争に巻き込まれたからである。ただし、「文明先進国」の醜い争いに巻き込まれた「あわれで純朴な原住民」というステレオタイプな構図で捉えるわけにはいかない。オランダ人の進出を抑えるために日本人を利用し、それができなくなると今度は原住民社会の意思を取りまとめてオランダ人に対して交渉を行うポジションを確保しようとしたところに彼の意図があったと考えることもできるのではないか。もちろん、彼の言動が記録されていないため、あくまでも推測の域を出ない。少なくとも、相当に高度で主体的な政治行動を実践できるしたたかで聡明な人物であったろうことは間違いない。

※以上、主に林田芳雄『蘭領台湾史―オランダ治下38年の実情 』(汲古書院、2010年)を参照。

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*本記事はブログ「ふぉるもさん・ぷろむなあど」の2014年1月19日付記事を、許可を得て転載したものです。
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