中国、新興国の「今」をお伝えする海外ニュース&コラム。
2014年02月01日
shanghai perspective / Bon Adrien
中国の都市化では、農村と都市の二重構造を打破するというのが、もっとも大きな課題です。日本では人の移動が自由であったために、都市化における人の移動の制限を加えてきたことはありませんでした。しかし、中国では戸籍制度を基本として人の自由な移動に制限が存在します。
中国内外から改善を求める声が高まっていますが、農村と都市の二重構造、人の移動の制限の改革はなかなか進みません。それはなぜなのか、当局が改革に慎重なのは、過去の失敗の記憶、都市化のトラウマとジレンマがあるからです。
■第1次五カ年計画における都市化とその問題
新中国の成立前まで、共産党は農村を中心とする革命を行ってきました。共産党の革命重点が農村から都市に転換したのは、1949年の中共第7期二中総会(中央委員会第二回総会)による毛沢東報告です(小林1974)。毛沢東が「都市の生産を回復し発展させ、消費的な都市を生産的な都市にかえたとき、人民の権利は、初めて強固なものになる」と報告しました。これをきっかけに「消費都市から生産都市へ」の基本的な流れができます(小島1978)。
そこで、第一次五カ年計画では重工業化と都市化の方針で経済建設が開始されました。
解放当時の都市建設の目標は都市公共施設の修復・建設と環境衛生(上下水道、ごみ処理など)の改善でした(以下、主に越沢1978)。とくに大きな問題は、住宅でした。日中戦争時大量の農民が離村し都市へ流入してスラムを形成していたからです。また解放後多くの農民が都市に流入するとともに(都市人口増加の2/3は農村からの流入)、家族を呼び寄せるため、一人当たりの住宅面積は減少、住む場所のない労働者も増加していました。(都市に行けば住宅が分配されるという期待も農民が都市に移動したインセンティブになったらしい。)
重工業化にともなって、都市近郊の農地が収用されました。肥沃な土地が荒地と化し、農業生産に支障をもたらすとともに、さらに農民の転業問題を引き起こしました。1956年国務院は土地収用に関する浪費の防止について通達も出しています。
工業化を支える商品化食糧の供給にも問題が発生します。副食品(野菜、肉、卵など)の供給は不足しがちで、北京、上海、天津などの11都市の野菜の供給率は7-8割程度でした。野菜は長距離輸送に向かないため、近郊農業を発展させる必要がありますが、土地収用でそれもままならないという状況でした。
■大躍進期における都市化政策の転換
この住宅供給、土地収用、食糧供給の3つが都市化のネックとなり、大躍進期より都市化の方針に大きな転換がおきます。
第一の転換が工業分布の「大分散、小集中」です。大都市の発展を抑制し、中小都市の工業化に力を入れることとなりました。
第二の転換が農村人民公社の設立と農村工業化政策です。1958年から急速に人民公社化が進められ、農民の集団化と農村における工業化が進められることとなりました。
第三の転換が下放政策です。都市技術者や青年を農村に下放するとういうことです。
実際の人口移動をみてみると、第1次五カ年計画が終了する1957年まで毎年200万人から300万人程度の労働が農村から都市に移動しました。その後大躍進期(1958~1961)に地方各都市で工業化が進められ、2000万人が地方都市に移動しました。でも増大する人口が都市で抱えきれずに1961年にほぼ同数の労働が農村に帰されました。その後文革期を通じて青少年の農村下放政策が制度化され、1080万人が農村に送られたと見られます(以上、数値は小島1978、pp.19-21)。
この第1次五カ年計画では、増加した人口を都市で解決できなかったのです。これが中国の「都市化のトラウマ」になっています。
■現在の都市化と過去との類似
このように過去の都市化を振り返ってみると、現在の都市化政策と似た部分が非常に多くあります。共通点にもとづいて現在の都市化政策の状況をみてみると
(1)都市化のための土地収用が行われていること。
(2)食料供給維持のため、18億ムーという耕地保護の方針を打ち出していること。
(3)「新農村建設」という名目で農村の都市化が進められていること。(ついでに言えば大学生「村官」、大学生を数年間村の幹部として現場を経験させることが実施されている。)
(4)大都市の抑制と中小都市の発展を目指していること。
財政の問題がほとんどのような気がします
高齢化が急速進行しますから手をつけるのかどうかすら疑わしいのですが