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バングラデシュとコメ文化、飢えを追い払った化学肥料の力(田中)

2014年11月11日

日本人とバングラデシュ人の共通点として、共に米食文化であることがあげられる。日本語では食事を取る意味で「ごはんを食べる」という。つまり、米の飯を食うことが「食事」の文化なのだ。これはバングラデシュ人も同様で「バット(ご飯)」を食べる事が食事という認識である。

かつては日本人も一年に平均100キロ以上のコメを消費する民族だったが、食生活の多様化に伴い減少した。一方、バングラデシュ人は今でも100キロ以上コメを食べている。

農村で肉体労働者の青年の食事風景をみると、どんぶり飯どころか洗面器なみの大きさの器に山のように飯をもり、平らげているのを時々見かける。こちらのコメはインディカ米で、うるち米に比べてカロリーが少ないため、必要な食事量も多くなるのだ。


実りの秋
実りの秋 / "KIUKO"

■世界最大級の米産地にして輸入国?!バングラデシュの過去


かつて、世界最貧国と呼ばれたバングラデシュはこのコメの生産をめぐって大きな問題を抱えていた。

稲作は三期に分けて行われる。雨季稲作のアウス(8月収穫)とアモン(11月収穫、乾季稲作(4月収穫)のボロと呼ばれている。毎年5月頃から雨季が始まり、8月頃まで農地はガンジス川やブラマプトラ川およびその支流の増水により、水に沈むことになる。この増水は肥沃な天然の肥料を農地にもたらす一方で災厄も起こしていた。

この国の洪水は、日本の河川の洪水のようにいっぺんに何もかも押し流すようなものではなく、毎日少しずつ水量が上がっていき、ゆっくりと水に沈んでいく。雨季の増水で農地が水に沈むのはあたりまえなのだ。通常想定している以上の水が来たときに初めて「洪水が災害」という認識をする。

1970年代頃までは三つの作期の中でアモン作が最も生産量が多かった。その頃のバングラデシュは毎年急速に人口が増加していた。受給は常に逼迫し、生産量の増加が常に求められていた。

ところが、アウス、アモン作は雨季の増水を利用して作付けするため、毎年水の量が変化する中で作付けをしなければいけない。その水に過不足があると、収穫量が減ってしまう。つまり、洪水があると飢えることになる。つぎの収穫まで食料が持たなくなるのである。アモンの収穫前、貧しい農村では食料の尽きた農民たちが徒党を組んで強盗になることもあった。そこまでしないまでもコメにイモや豆類をまぜた食事でかろうじて空腹を凌ぐのがあたりまえだった。このような事情から、バングラデシュは世界最大級の米の産地でありながらコメの輸入国だった。この時代は日本を始めとする諸外国から食糧援助をなんども受けている。


■“緑の革命”が変えた農業

今日のように、少々貧しい階層でもいつでも腹いっぱい米の飯が食べられるようになったのは、1980年代に起きた緑の革命の恩恵による。

バングラデシュでの緑の革命は乾季稲作の生産能力強化による。フィリピンにある国際稲作研究所(IRRI)より高収量品種IR-8が与えられ、以後バングラデシュでさまざまな高収量品種が開発された。IR-8は地元の農民からは「ビプロップ」(革命)とよばれ、大きく生産力を伸ばすことに成功した。いまでは乾季稲作そのものを稲作研究所の略称から「イリ」と呼ぶようになった。

乾季は雨がほぼ全くふらない為、人工的に水を供給しなければならない。また、生産力を伸ばすには、化学肥料と農薬の使用が必須だった。この、高収量品種、灌漑技術、化学肥料と農薬の使用の4点セットが緑の革命のメカニズムだった。これにより、それ以前の稲作に比べおよそ三倍以上の単収(単位面積あたりの収穫量)が出るようになった。また、人工的に水の供給を始めたことで水資源を人間の手で管理できるようになった。おかげで安定的な収量が見込めるようになったのである。

この緑の革命は急速に全国に普及し、人口増加率を上回る食料生産増加率を達成。次第にバングラデシュは飢えから解放されていった。

農民は当時を振り返り、「化学肥料を初めて手にしたとき、こんなモノを自分の田んぼに入れて、果たして大丈夫だろうかと思った。でも使ってみたら全く予想しないほどの収穫があった。今は化学肥料なしで農業はありえない」という。


■「神の御心のままに」ベンガル人気質は洪水の影響?!

現在は人口増加率も落ち着き、食糧生産に関わる問題はほとんどなくなってきた。それでもコメの輸入は行われているが全体量の5%ほど。そのほとんどはバスマティ米と呼ばれるインド北部特産のコメで、いわゆるぜいたく品、高級食材として使われている。

一方で富裕層を中心に米食離れがすすんできている。以前は三度三度米飯を食べていたが、朝は小麦粉を練って作ったルティを食べるのが一般的。このコムギ食が進んだ背景にはアメリカが食糧援助としてコムギを配給していたことから、徐々にコムギ食が浸透してきたことが理由の一つとしてあげられる。このあたりも日本の戦後の学校給食を介したコムギ食浸透の背景とよく似ている。

彼らの米作りの姿勢は現代のベンガル人の行動にも強い影響力を持っている。もともと、お天気まかせ、洪水任せなのだ。イスラム教徒のよくいうインシュアッラー(全ては神の御こころのままに)はアウス、アモン作のやり方そのものに根ざしている。生産がうまくいくかは洪水次第なので綿密に計画をねったりしない。ごく大雑把な計画で、あとは場当たり的に対処する。実際うまくいくかどうか、人間自身が収穫量に裁量を持てないのだ。
その文化は都会にやってきたベンガル人にも根強く残っていて、最初から計画をしっかりたてて実行するというよりは、場当たり的に対処してうまく行ったらオッケーという風潮を強く残している。
このことは1000年以上灌漑稲作で生きてきた日本人の持っているメンタリティと大きく違う。日本のコメ作りは夏の水不足と、限られた作期との戦いだった。有限の水資源を管理するために常に集団性を持ち、年に一回しかない収穫のために綿密に計画を建てなければ生き残れなかった。同じ米食文化と言ってもその中身には色々違いがあるようだ。

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■執筆者プロフィール:田中秀喜
1975年生まれ。メーカー勤務、青年海外協力隊、JICA専門家を経てバングラデシュでコンサル業を起業。チャイナプラスワンとして注目されながらも情報の少なさから敬遠されがちなバングラデシュの情報源となるべく奮闘中。

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