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2015年05月11日
独家对话加藤嘉一:对中日关系不乐观不悲观
新浪網、2014年10月16日
ワシントンD.C.の中心部、デュポン・サークルにある喫茶店にて。彼はシャツ、ネクタイ、スラックスといった出で立ちで時間通りに現れた。加藤嘉一は20年近く日本を離れているが、その装い、立ち居振る舞いはやはり日本人らしい[訳注:20年は原文ママ。10年の誤記]。こざっぱりとした身なりに、礼儀正しい態度である。席に着くなり、今しがた聴講したマクローリン教授のセミナーについて話し始める。「マクローリン教授によると、メディアとのやり取りで気をつけなければならないことが二つある。一つ、オフレコなんてものは存在しない。二つ、決して嘘をついてはならない、なぜならいつか誰かが見つけるから」
その二つ目を口にしたとき、加藤は何か特別に感じることがあったに違いない。
2012年の10月31日、『週刊文春』が「『中国で一番有名な日本人』加藤嘉一氏に経歴詐称疑惑」と報じた。これが加藤が行って来た数多くの経歴詐称に関して、初めて問いを投げかけたものである。同日、加藤は自身のホームページに「お詫びとご報告」を掲載し、「私が東京大学に合格・入学した事実はな」いことを認め、中国のマイクロブログにおいても「東大を蹴った」「東大に合格した」「東大を退学した」といった過去の言説が真実ではないことを告白した。その後も数々の経歴詐称が発覚し、北京大学における学歴、慶応大学の上席研究員、北京大学講師、同大朝鮮半島研究所研究員といった職歴、国体における柔道4位入賞、ハーバード大学合格、日中両国の権力者たちからの支持や激励を受けているといったことまで俎上に上がった。
そして、中国で炎上を経験した後、かつて日中両国で期待の星とされた加藤は、メディアから姿を消した。それから今まで、沈黙を破ることはなかったのである。加藤はハーバード大学に無給、私費、学位の与えられない研究員として在籍した後、米国首都ワシントンD.C.に校舎を構え、国際政治に関して名高いジョンズホプキンス大学ポール・H・ニッツェ高等国際関係大学院(SAIS)に移って来た。かつての才気煥発とした雰囲気と打って変わり、大人しくなった加藤は控えめで、別人のようである。この度、新浪の特派員が独占インタビューの機会を得て、長きに亘る沈黙を破り、初めて加藤の経歴詐称の顛末に迫る。
米国での新たな出発:ジョギングやテレビ鑑賞は欠かさず
米国に来てからも、スケジュールは変わらずですか。ジョギングも続けているのでしょうか。
もちろん走っています。ワシントンに来てから、ジョギングのルートはいくつも見つけました。週に5日は走りに出て、十数kmは走っていますよ。
マイクロブログやブログの更新の頻度は落ちていますね。まだメディアへの寄稿は続けているんですか。
はい、日本の雑誌への記事は書いています。中国のメディアへは出国してから書いていませんが。
米国に来てからはどんなニュースから情報を得ているんですか。中央電子台のニュース番組や、人民日報は視聴、購読していますか。
当然です。必須事項ですね。日課として毎日チェックを欠かしません。テレビドラマも視ています。今は「鄧小平」や、日本のドラマでは「昼顔」「同窓生」「ヒーロー2」なども視ています。私は内向的な方で、あまり社交の場を好みません。ほとんど会食やパーティといった類いには参加せず、テレビを通して社会と繋がっています。そうして自分の世界を広げていっている、とでも言いましょうか。
米国での主な研究対象は何でしょうか。
私が今、注目しているのは、中国の国内政治の変容と民主化、日中関係、中国の台頭が日米同盟に与える影響などです。また、首都ワシントンで生活するからには米国政治の意思決定プロセスなども観察してゆこうと思っています。私はアジアに対してある種のコンプレックスを持っていますが、アメリカに反発したり、また過度に親米的な態度はとりません。ただ、米国があるからこそ、どんな問題も解決するのだと考えています。日本人はそれをしっかりと自覚し、常に偉大な盟友である米国が機能することを求める必要があります。またその一方で、米国が万能ではないことを認識しなければなりません。永遠の友情など存在せず、あるのは継続的な利益の共有であるとも言われます。同盟国に対しても、つなぎ止める努力を止めてはなりません。また、日中両国が努力を続け、アジアに安定と繁栄をもたらすことができるならば、米国が域内において果たさなければならない役割も小さくなります。それが合理的で、日米中の三者全てにとって好ましい状況でしょう。
過去二年間、ハーバードでは何をしていたのですか。SAISに来て何か変わりましたか。なぜSAISに来たのですか。
やっていることは同じです。客員として学術会議に参加し、レポートを書き、研究をするのです。ハーバードで二年間を過ごした後、ワシントンでの生活を経験してみたくなりました。アメリカの首都での生活は、人生で一度は経験しておかなければならないと思ったのです。
SAISの後の計画はありますか。
特に何もありません。11ヶ月後の状況を見て決めようと思います。
学歴捏造事件を語る:青かった、勇気がなかった
学歴捏造事件がアジアに戻る障害となっているというのは。
ありません。
ホームページに載せたお詫びの中で、東京大学合格の詐称についてのみ説明して、他の捏造について説明しなかったのはなぜですか。
当時もそうしたことに関する疑いやご指摘、ご批判を頂きました。ただ、『週刊文春』の報道に関しては、確かに私が間違いを犯した部分はあり、事実と異なることを吹聴していましたが、それは(東大合格という)一点のみで、他の事項については誇張や歪曲です。
なぜ東京大学に合格したと嘘をついたのですか。そうした詐称について後悔はしていますか。
(暫く黙って考えた後に)たぶん、青かったのだと思います。依拠するものが欲しかった。良く言えばストレスを減らしたかった、悪く言えば虚栄心が膨らんでいたんです。当時の私の心境を説明しようと思えばこうなると思います。後悔はしていません、後悔はない、私は自分のして来たことに関して一切後悔していません。もちろん反省したり、思い返したりすることはありますが、後悔はしません。私は当時、高校を卒業したてで、中国に来て時間も経っていませんでした。インターネットなんてありません。嘘をついた結果どうなるかなんてわかりませんでした。全く考えもなく、語って、喋って、意味の無いことを話して、その結果がどうなるかなんてわからなかった。私は今、本当に正直に打ち明けていると思って下さい。当時の私は頑張らねばと思い詰めていた、引き返すことは出来ませんでした。言うなれば、あれは自分自身を叱咤するためのものだったんです。繰り返しますが、私は良くないことをしたし、それは良心や道徳、正義に背くことでしたけれど、後悔はしていません。私は自分自身の信念に忠実であって、できる限りのことをしていたんですから。
本件はご自身に大きな影響を与えましたか。何か葛藤のようなものはあったのでしょうか。
影響はありましたが、ポジティブなものだけで、何か負の影響があったわけではありません。これがあったおかげで成長できました。自分自身に誠実に向き合うことができるようになりました。そして、過去に自分がしでかしたことについて責任をとることを学んだのです。皆さん、心配をしてくれますが、私は元気ですよ。笑
名誉が汚されましたか。
名誉は問題ではない、私は名声なんてものを求めたことはありません。詐称の件で、私が破滅したと思う人もいるかも知れません、私の文章が嫌いになった人もいるかも知れません。バブルみたいなものだったのでしょう。ちっぽけな実力しかないにも関わらず、色んなものを取り込んで大きくなったんです。それが爆発して、様々なことの後始末が必要になりました。自分の実力についてや、人間関係についてもです。あの一件以来、親友ともぎくしゃくしたし、一緒に飲んだ仲間にも避けられるようになりました。私が関わることで迷惑がかかったんですね。
私に記事を依頼したメディアや出版社は大丈夫でした。講演を頼まれた大学も。もし彼らが「東大に合格した加藤嘉一」に依頼していたのなら、もう私なんか相手にしなかったでしょうね。でも、彼らの全てが「東大の加藤」だから依頼していたのではなく、「生身の加藤」に仕事をくれていた人たちもいるんです。
アジアを離れて米国に来たのは、学歴捏造が原因ですか。
それとこれとは全く関係ありません。2011年の秋頃からハーバードとやり取りを始めました。2012年2月に北京から上海へ移ったときには、半年後にハーバードにいると決めていました。捏造の一件は10月ですから、その頃にはもう米国にいましたよ。けれど、その前のことだと思っている人も多いんですよね。
学歴捏造の件が報道されたことをどこで知りましたか。ショックを受けましたか。
『週刊文春』が発売されたとき、友人が転送してくれました。ショックではなかったですね。2005年頃と言えば北京に来て2年足らずでしたが、だんだんと露出も多くなって来た頃のことです。それから時間も経っていたし、心理的な準備は出来ていましたよ。
なぜもっと早く捏造を認めなかったのですか。
青かったんです。向き合う勇気がなかった。学業や将来に悪い影響があることを恐れていました。そして、私が告白すれば、きっと罵られたでしょう。当時は蓋をしたままにしておこうと思っていました。そして、出来るだけ遠くへ走って行ってしまおう、と。私も速く走るけれど、世間も速い。速く走って、世間を出し抜けるだろうか。脱獄犯みたいなものです。きっと追いかけて来る、きっと後を追って来る、と。もしうまくやってのけたら、東大の詐称も見つからなかったかも知れないし、躓いたら疑惑が深まるかも知れない。そんな風に考えていました。繰り返しますが、良くないことだった。道徳の本義にもとる行いでした。しかし、当時の私には勇気がありませんでした。詐称を告白せず、不安になり逃げることを選びました。今になって思えば、公表すべきだった。自分から発表すべきだった。早ければ早いほど良かったんだと思います。
これがあって原点からの再出発になったのでしょうか。
戻る必要はありません。どこに自分の原点があるのかなんてわかりませんしね。有名か無名かに関わらず、そんな人生の谷底にあっても、自分に真摯に向き合ってくれた方々には感謝しています。少なくない友人が、私の良いところ悪いところ、長所短所に向き合ってくれて、それが全てあるのが加藤嘉一だと認めてくれたんです。もとの場所に戻る必要はありません。それに、私は成長を続けているんです。
私は自分に大きな自信を持っています。だから、大声で叫ぶことだってできます。私の人生には汚点があるのだ、と。これを汚点と呼ばずして、何が汚点なんですか。刑務所には行かなかったけれど、汚点は残りました。これが本当の人生なんです。これが私の考えです。他者がどう評価するのか、それは他者の問題です。
理解されずとも、自らを外側に押し出してゆく
日中両国のメディアで活躍している加藤さんは、一つの問題に対して日中の人々の立場が違ったり、興味の持ち方が異なる場合に、受け手の違いに合わせて話す内容を変えることがありますか。
まず初めに申し上げたいのですが、私はとても幸せです。私は、日本語、中国語を使って日中両国の世論と向き合うことができます。それが出来る人は多くない。私は幸運です。批判されることも、ときには罵倒されることもありますが、痛くも痒くもありません。むしろ幸せなことだと思います。中学高校では、いわゆる実験的なクラスで学びました。カリキュラムが他のクラスと違うんです。それと、陸上部で長距離を走っていました。私が実験クラスではただ一人の長距離選手でした。長距離の選手の中では私が唯一の実験クラスでした。だから、誰も私を理解してくれなかった。他の選手は午後3時半に授業を終えて、練習を始めるんです。でも、私は5時まで授業がありました。私だけいつも遅れて参加するんです。一方の実験クラスでは、私は早く出なければならなかった。みんな「何だこいつは」と思ってるんです。だから、私は理解されないことには慣れていました。
求められるままに自分の立場を変えるとの批判もありますが。
まず、受け手が違うんですよ。私が日本でする話が中国でどうかといえば、話せないかも知れません。日本の世論の前で話せないこともあります。だから、私は日本で親中派と言われたこともなければ、中国でタカ派とされたこともありません。でも、私を右翼と呼んだ人はいましたね。聞いたことがあります、私の言うことは右翼的だと。
日中両国のメディアで表現する方法は違っても、金儲けを目的に変更を加えることはありません。むしろ、より説得力を持たせるためですね。私も、日中で同じように表現できればとは思うのですが、言葉も違いますし、受け手も異なります。だから、同じ表現をどう理解するのか、同じではないんです。アメリカの偉い先生もワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズでは言うことを変えるでしょう。もちろん、もしこれが私の表現能力の問題であって、それが他者の気持ちを傷つけることがあれば、それが一切私の能力不足のせいなのであれば、真摯に謝罪するつもりです。
政治家になろうと思っていますか、それともメディアで働くとか、学者になろうと考えていますか。
メディア人になろうとか、学者になろうとか思ったことなんてありませんよ。北京大学で勉強しているときは、先生に「お前は学生らしくない」と言われましたし、学会では「あなたは学者肌ではない、学者らしくない」と。メディア業界でも「メディア人らしからぬ」と言われました。私は走るのが好きな人、ですかね。スポーツをやる人たちは認めないでしょうけれど。誰にも理解されないのにはとても満足してますよ。
孤独ではないですか。
それでいいんです。メディア業界でも、学会でも、マージナルなものとされ、日本でも中国でもアメリカでもそうです。家庭でも同じ。どんなときでも、どこにおいても、私のいるところは辺境になるんです。理解されていない状態、そう判断せざるを得ないというのは少なくとも正確なところだと思います。小さい頃からある基本的な欲求を持っていました。Make a difference。そうでなければ生きている意味が無いんです。子供の頃からそれを決意していて、ずっと守り続けて来られたことは多くないんですけどね。続いているのは、走ること、それから人とは違うことをすること、です。違うことをするという欲求は、私の中の深くに根ざしていて、潜在意識となって、そして強くなって来ました。
何で私は理解されない方向へ進むのだろうか、いったい自分は何者なのだろう、と自問するかも知れません。そこで、人生は一度切りなのだから、自分が何者なのか、それが答えられれば良いんです。人は常に進んでいなければなりません。そこから魅力が生まれるんです。
今も進み続けているんですか。
そうありたいですね。少なくとも私の置かれた環境では、自分が何者であるのかを考えることを強いられます。理解されなくて然るべきだと思います。
多くの人が私をメディア人や学者としてみたり、或は将来は政治家になりたいんだ、と思う人もいます。みんな好きなことを言っています。でも私は自分にそんなラベルは貼りません。私は政治資本を積み重ね、政策を学んで来たし、学会やメディア業界を行ったり来たりするのも合理的に見えます。だから私をメディア人と呼ぶのもあながち間違っていない。学者とするのも、完全に誤りとも正解とも言えません。そんな風にやってきましたからね。中国と日本、メディアと学会、私はその間を渡り歩いて来ました。
私は理解されない人間です。こう呼んでみたい、難民、と。私と難民の人々の間に何の別がありましょう。私は帰る家を持ちません。これがいい、しっくり来ます。北京に来てすぐの頃、お金も友達もいない、特別しっくり来ました。無人島に行ったり、アフリカの砂漠で一人生活をしたりしたいと思いました。そんなところでもうまくやれると思います。奮闘する理由があるからです。
メディアと学会の間を渡り歩き、政治資本を蓄えてきたとのことですが、将来は政界を窺っているのでしょうか。
私の中での政治に対する理解やその定義には変化が生じて来ました。政治家になることと、政治をすることは別の概念です。政治家は一つの職業ですが、政治というのは政策に影響を与えるということを指します。五年前は、政治家になって政策決定のプロセスに関わることを望んでいました。しかし、2010年に日本で各界の名士と交流したことで、私の政治に対する理解は変わりました。ある調査によると、日本の政治家はその時間の6割を支持者の冠婚葬祭に充てているというのです。一つのしている間は他のことができません。一つの家を訪問すれば、他を断ることはできません。政治というのが政策決定に影響を与えることだとすれば、政治をするために政治家となる必要があるか。だんだん疑うようになって来ました。もっと別に良い方法があるのではないか、と。
どうして理解されないマージナルな存在であろうとするのですか。
一つには、小さい頃からそう意識が形成されてきたことがあります。またそれとは別に、中国でも日本でも、若い人たちがみな努力しているのを見て来ました。とても可愛いんです。大人は往々にして権威や名声といったものに縛られて生きています。そしてそれを他人にも押し付けようとするんです。これの理解に苦しみました。大人ってかっこ良くないじゃないか、と。私はもう少しかっこ良くありたいと思いました。少なくとも、かっこ良く装いたい。私は常にかっこ良さを装おうとして来ました。そう演じて来たのです。
若い人は乱世を望みます。乱世にはチャンスがあるからです。若者の特権は既存のルールを打ち壊すことにあります。若者たちにはこの世界に溢れているチャンスを見つけて欲しい。権威によって打ち立てられた規則を打ち壊して欲しいのです。道は一本である必要はありません。
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