私が編著を務めた『
中国S級B級論 ―発展途上と最先端が混在する国』が発売されました。
私の他に中国経済の研究者である伊藤亜聖さん、中国政治ウォッチャーの水彩画さん、アジアITライターの山谷剛史さん、中国アナリストの田中信彦さんという豪華な顔ぶれに寄稿していただきました。
なぜ、こんな奇妙なタイトルの本を作ったのか。その思いは本書の「はじめに」に込めてあります。出版社の許可をいただけたので、以下に掲載いたします。
「楽しみすぎる。圧倒的先進国、中国。ここから学ばないと次の時代は生き残れないだろ
う」
これはお笑い芸人の中田敦彦にさんによるニュースサイト「Newspicks」でのコメントだ。
このコメントを目にして、「おおっ?!」と声を出して驚いてしまった。貧しくて汚い国、パクリだらけの海賊版と叩かれまくってきた中国が、気がつけば日本が学ぶべき先進国へと変わっているではないか。
中国=先進国という印象はなにも中田さんだけのものではない。中国専門のジャーナリストである筆者が大学で講義しても、20歳前後の若者たちの中国イメージは中田さんとよく似ている。
たしかに中国社会に対する最近の報道は、発展の側面を強調したものが多い。中国社会を取り上げるテレビ番組もそうだ。一昔前ならば、道いっぱいの自転車の大群や貧しい農村、疲れた労働者といった画が定番だったが、最近ではさっぱり見かけない。高層ビル、ドローン、キャッシュレス決済、無人店舗などの未来感あふれる社会として取り上げられることが増えた。
貧しい途上国というイメージで語られてきた中国が、気づけばイケている存在に様変わ
りしている。この急転換に驚いているのは私だけではない。中国人も同じだ。
中国人にとって海外はながらく憧れの地であった。たとえば中国には「外貿」という看板を掲げたお店がある。海外輸出用の優良な商品をそろえた店という意味だ。中国人の多くは舶来品信仰が強く、メイドインチャイナの製品よりもメイドインジャパンのほうが高品質だと信じている。私たち日本人がこれほど中国製品に慣れ親しんでいるいまでも、だ。
紙オムツなども日本製が売れる。ある日本企業はこれほど中国で売れるならばと、中国国内に工場をつくったが、まったく売れなかった。同じメーカーの製品でも日本製のほうが、より品質が高いと思われているためだ。結局、中国工場の設備を日本に持ち帰り、日本生産を拡充することになった。
中国人の舶来信仰は強く、いまでも米国や日本、韓国が進んだ国。中国は遅れた国という意識を持つ人が多い。それなのに、急に外国人から「中国は先進的!」といわれれば、面食らうのも無理はない。
さらに、この「先進国・中国」のイメージは、国際社会の大きな変化にも大きな影響を及ぼしている。2018年は米中貿易摩擦が激化する一年となった。トランプ大統領は中国製品の関税を引き上げ、また中国企業による米企業買収を規制。通信大手、華為技術(ファーウェイ)による携帯電話基地局設備の輸出を制限するなど強硬な姿勢を取った。
その背景には、中国の技術力がすでに先端レベルに達しており、近い将来米国を上回るという恐怖感がある。中国の技術水準はすでに世界の最先端にあるのではないか、という認識が、国際政治の底流にもあるわけだ。
B級だからS級になれる「リープフロッグ」現象
この急転換をどう考えればいいのだろうか? 中国はわずか数年間で急激な進歩を遂げたのか、それとも遅れた中国のイメージが間違いだったのか。いや、いまの先進国・中国のイメージこそが誤りなのか。「遅れている、汚い、ダサい、パクり、貧しい」というB級中国、「最先端、テクノロジー、イノベーション、金満」というS級中国、果たしてどちらの中国像が正しいのだろうか?
じつは、「どちらでもある」が正解だ。「遅れた/進んだ」という議論は、ある社会は決められたルートを通じて成長するという前提から成り立っている。たとえば、「いまの中国は30年前の日本と一緒」というとき、中国は昔の日本と同じような過程を経て成長していくと考えているわけだ。
ところが実際はというと、発展の仕方はかなり違う。なにせ、追いかける側は先進国がどのような成長をしているのかを知っている。バカ正直にねじ曲がった道を一歩一歩進むのではなく、ショートカットして最先端にいきなり追いつこうと考えるのも当然だ。
途上国が先進国の歩んだ道をショートカットして、一足飛びに最先端にいきつく現象。これは「リープフロッグ」(カエル飛び)と呼ばれている。固定電話が普及する前に携帯電話が普及する。パソコンが広まる前に、スマートフォンでのネット活用が一般化する……といった事例が典型だ。こうなると、日本とは違うルートで進んだ中国が、日本よりも便利になっている……ということがあるわけだ。
「最先端」と「遅れ」が入り混じる国
その部分だけ見ると、中国は日本よりもはるか先を行っているように見えるが、じつは他の部分を見ると、まだまだ不便だったり、遅れているようなところも多々ある。14億人の人口大国ということもあり、階層や地域の違いも大きい。
高層ビルが建ち並ぶ、きらびやかな繁華街から1本外れると、昔ながらのボロボロの建物が並び、諸肌抜いた作業員が荷物を運んでいることもよくある話。肉屋や八百屋が並ぶ市場に行くと、スマートフォンのモバイル決済に対応している〝先進性〟と、清潔とはいいがたい売り場という〝後進性〟とが同居している。
あるいは中国の遅れた要素が、イケている中国の大前提になっていることもある。第1章で紹介するシェアリングエコノミーはめちゃくちゃ便利なサービスだが、その利便性を支えているのは貧しい非正規労働者たち。ちょっと前ならば「無業の遊民」といわれていた人々が、中国のハイテクサービスを支えている。
B級かS級か。二者択一では理解できない現実。遅れているか進んでいるかではなく、日本とは違う形での発展を遂げつつある社会。そうした中国のいまを描き出すのが本書の課題だ。
長期にわたり中国にかかわり、変化を目の当たりにしてきた5人の専門家が、社会、経済、IT、政治、生活と多角的な視点から中国の変化を解明する。
本書の成り立ちについても一言記しておきたい。書店の中国コーナーをながめていただければ一目瞭然だが、本書は数ある中国本の中でも異色だ。政治や経済の解説、あるいは中国の強権ぶりの批判や、経済崩壊を〝予言〟する本はいくらでもあるが、草の根の視点から、政治から社会、生活まで多面的な視角から中国の現状と変化を読み解いているのは本書だけだろう。
類を見ない、不思議な企画となったのには理由がある。2018年、マッハ新書という小さなムーブメントが起きた。ある特定の分野について知見や思い入れを持つ者が、勢いや情熱をぶつけて、マッハの勢いで電子書籍を出版、販売しようというものだ。編集者もいなければ校正作業もない荒削りな作品の数々は、既存の出版の視点から見ればけっして高品質とはいいがたいが、情熱は通常以上。不思議な魅力に充ちていた。
本書の執筆陣のうち、高口康太、伊藤亜聖の2人もこのムーブメントに参画し、マッハ新書を出版している。そのうち高口の著作を、さくら舎の編集者である松浦早苗さんが目にとめていただいたことから本書の企画ははじまった。
本書もまた、「書き手が伝えたいことをぶつけたい」という情熱の面では、マッハ新書の精神を受け継いでいる。そして、普通の出版企画ではなかなか取り上げられない中国の複雑さ、見落とされがちな些細な、しかし重要な面を描けたのではないかと自負している。